わいワイ がやガヤ 町コミ 「かわらばん」

みなトコ×みなとQ みなとQ編集室 06-6576-0505

2014年2月5日木文字 かめ (一)

木文字かめは、前回紹介した織田作之助の名作『夫婦善哉』の舞台になった法善寺横丁の、ぜんざい屋の女主人です。
かめは明治6年(1872)島之内(現・中央区)の木文字重兵衛の娘に生まれました。
父は竹本琴太夫の芸名をもつ文楽の太夫ですが、堅実な性格で、生計を立てるために法善寺の境内に茶店を出し、 妻のことが切り盛りします。同16年境内の整理で法善寺横丁に移転してきますが、夫婦は相談してちょっと変った店にしてはやらそうと工夫します。
ある日、たまたま笠屋町を歩いていた重兵衛が、ひょいと古道具屋をのぞくと、外国人が飾ってある大きなおたやん(お多福人形のこと)を指さして、
「モットマカランカ。マケナサイ」
と値切っているのが目につきます。松竹梅の模様のついた十二単衣(ひとえ)を着ているおたやんが、なぜか福の神に見えました。重兵衛は店にとびこみ、おたやんに抱きついて、
「わいが買う。倍の値段で買う」
といってしまいます。

おたやん「お福さん」

おたやんは「お福さん」と名づけられ、店の屋号も「お福」と称し、招き猫のかわりに店の正面にデーンと置き、ぜんざい屋を始めることにしました。
ところが福は来ない。近所から出火して店は類焼したのです。重兵衛は七つ八つの女の子ぐらいあるお福さんを抱え、ことはかめの手をひいて、夢中になって逃げました。
翌年店を再建、重兵衛は本職の太夫の仕事が忙しくなり、店はこととかめの母娘二人が経営に当たります。女だけに工夫が細かい。いろいろ考えたあげく、1杯のぜんざいを2杯に分けて出すことにします。少しでも多く見えるように、分厚いがお皿のように浅い容器二つに分け、備前焼の湯呑、赤塗りの箸、これを朱塗りの盆にのせて出す。片方はあんをこした汁粉、もうひとつは小豆粒のぜんざいと決め、これを熱くしてふうふう吹きかけながら食べる趣向です。
なにしろ場所は道頓堀五座の近くですから、アベックや家族づれが多い。
「へえー、こら変っとる。なんでふたつや」
と客に聞かれると、かめはニッコリ笑ってこう答えました。
「おおきに。めおとでんね」
これがめおとぜんざいの起こりです。(続く)

木文字 かめ (二)

明治17年(1884)法善寺横丁に、こととかめ母娘の出したぜんざい屋「お福」は、招き猫がわりに置いたおたやん(お多福人形のこと)と1杯のぜんざいを2椀に分けて出した工夫が当たり、繁盛します。
もちろん味や材料にも工夫をこらし、餅は銅貨ぐらいの大きさですが、有名な道明寺産の干飯(ほしい)で作ったものしか用いません。甘いぜんざいにこのサクリとくる歯ごたえが、実によく合いました。
店を出してから10年目に、父の重兵衛が、20年目に母ことが世を去ります。すでに30代に入っていたかめは、ひたすら店を守りました。色白で愛敬者のかめは、どんどん繁華街化していくミナミでも、常に美人番付の大関の地位にあったといわれます。
「かめちゃん、いるるか」「モシモシかめよ、かめちゃんよ」
ひいき客はこういいながら、のれんをくぐって入ってきます。迎えるかめとおたやんの笑顔は、いっぺんに浮世の苦労をふっとばします。聞き上手の笑い下戸、かめと話す誰もがほのぼのした気分になりました。

おたやん「お福さん」

めおとぜんざいの値段は、創業のころ1銭、大正初年で5銭、和に入って7銭、戦争の始まるときは10銭で、これはすうどん1杯の価格と同じです。薄利多売がかめの商法でした。
時が流れるにつれて、かめの横顔にどこか淋しげな影が漂います。
「これが娘でんね」
とおたやんを撫でる姿に同情した回りが、シナという養女をもたせ、シナに婿をとって孫の重吉が生まれると、こおどりして喜びました。
昭和13年(1938)重吉は出征し、同19年店は強制疎開を命じられます。
「お国のためやったら…」
かめは渋る他店にさきがけ店をたたみ、藤井寺へ去りますが、半年後、ミナミは大空襲で火の海となり、なにもかも焼失しました。
敗戦後、ミナミに再び春がきて、法善寺横丁はめざましく復興していきます。
「めおとぜんざい、やりなはらんか」
昔なじみの客たちにいわれると、
「へえー、重吉が帰ってきたらな」
とニッコリしました。実は重吉は同19年6月に戦死したのを知らなかったのです。同25年、かめは78歳で永眠しています。
(終わり)