わいワイ がやガヤ 町コミ 「かわらばん」

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2014年2月7日ミス・ワカナ (一)

ミス・ワカナ、玉松一郎コンビは、夫婦漫才の元祖で、エンタツ、アチャコに負けない人気がありました。
ワカナの本名は河本杉子、明治43年(1910)鳥取市の生まれです。幼いころから陽気でお茶目、映画スターにあこがれ、親の反対を押し切って大阪に来て、ミナミの「楽天地」にあった演芸館で、河内屋小芳と名乗り、こましゃくれた歌や踊りで客を笑わせます。なにしろ少女が大人の真似をするから、愛くるしいがおかしい。かなりモテモテの売れっ子でした。
大正15年(1926)まだ16才の小芳は、映画館で伴奏をしていた22才の青年と知りあい恋に落ちます。青年はほとんどの人たちが小学校しか行かない時代に福島商業学校を卒業しており、音楽家をめざして修行中、アルバイトに出ていて親しくなったのです。

ミス・ワカナと玉松一郎

青年の両親は怒り、鳥取の小芳の両親に文句をいいましたから、小芳はむりやりにつれもどされ、近所の若者と結婚させられてしまいます。ひどい時代ですね。
しかし杉子はどうしても青年が忘れられず、わずか3カ月で家出し、ふたたび大阪へ来て、玉造(現・中央区)にあった「三光館」で働きながら青年を探しているうち、偶然近くの映画館「朝日座」で伴奏していた青年を見つけます。抱きついた杉子は泣きながら、
「ここにおったら、またつれもどされる。誰も知らない遠いとこへ行こう」
と青年の腕をつかみ、いやもおうもなく、大阪駅から西へ向かう列車にとびのりました。ほとんど所持金もなく、22才と16才の無鉄砲なかけおちでした。
「どないして生きていくつもりや」
青年が心配そうにたずねると、杉子はにっこり笑って、
「漫才やろ。夫婦漫才やで」
とこともなげにいいます。
「漫才なんて、ボクでけへんで」
「ウチがやるんや、あんたはだまって立ってるだけでええ」
こんなやりとりのあと、杉子は再会した場所が玉造やからあんたは玉松一郎、ウチはミス・ワカナやと勝手に芸名をつけました。
ワカナと一郎は来たこともない広島で下車すると、場末にあった小さな演芸館をみつけ、
「ごはんたべさせてもろたらええさかい」
と泣言をいって頼みこみ、下働きをした数日後、いきなり舞台に立ちます。(続く)

ミス・ワカナ (二)

大正13年(1926)大阪からかけおちした22才の玉松一郎と16才のミス・ワカナは、大阪駅から列車にとびのり、広島で下車、場末にあった演芸館に泣きつき、舞台に上がって漫才を演じます。といっても全くの素人、ワカナがひとりで喋りまくり、一郎は借りたセロをひきながら、ときどきあいづちを打つ程度で、さっぱり売れません。
それからの2人の生活は、お話にならないほどみじめで哀れな毎日でした。野良犬のほうがもう少しましだったでしょう。それでもワカナは底ぬけに明るく、ひっこみ思案の一郎を励まし、
「な、外国に行こ。外国ならウチらを有名な芸人やとまちがいよるかもわからんで」
と笑顔で誘います。いいだしたら誰がなんといおうと聞く耳持たぬワカナです。今度も渋る一郎の腕をひっつかみ、中国大陸へ渡り、日本人の多かった青島(ちんたお。シャントン省)の舞台に立ちました。

玉松一郎とミス・ワカナ

なつかしい日本を話題にし、童謡を歌って踊る少女妻に好奇心が集まり、少しは芽が出かかったとたん、一郎が病気で倒れます。
「おカネいるさかい、かんにんして」
ワカナはあやしげなダンスホールに勤め、酔客どもにからまれながら必死になって医療費をかせごうとします。
2人は小さな民家の2階に下宿していました。病人の一郎は手に長いロープをくくって窓からつりさげ、深夜に疲れて帰宅したワカナがひっぱると、ねぼけまなこではいながら階段をおり、ドアを開けます。
「あけたら誰もおらへん。変やな思たらワン公でした」
のちに一郎はこう笑っています。
ことばではいえぬ苦労を重ねたワカナですが、人生、なにが幸せになるかわかりません。ワカナはここで独特のタップダンスを身につけ、これが人気漫才師のスタートになるのです。
やがて回復して舞台に上がった一郎のアコーディオンに合わせて、ワカナは珍妙なステップを踏みました。
ワカナ「うまいですね。天才ですわ」
一郎 「いいえ。それほどでもございます」
ワカナ「このどあほ!ウチのダンスやんか」
このネタは爆笑また爆笑、大いに受けました。こうして中国で得た人気をひっさげて大阪へ2人はもどってきたのです。(続く)

ミス・ワカナ (三)

帰国したワカナは、夫玉松一郎の才能を次々にひきだします。漫才界初めての「漫才ミュージカル」とでもいうべき新しい芸能ジャンルの創造です。これは新派の名台詞(せりふ)あり泣かせる浪曲あり、ラブシーンからチャンバラごっこ、都々逸(どどいつ)が入るかと思えば一転して映画説明、歌舞伎・浄瑠璃のさわりなどを、器用に演奏する一郎のアコーディオンに合わせて小柄なワカナは、全身を使って熱演しました。
ワカナ・一郎の夫婦漫才が全国区になるのは、NHKのラジオ出演がきっかけですが、このコミカルなミュージカルが電波にのりやすかったからです。当時のラジオは現在のテレビより、はるかに威力を発揮していました。

玉松一郎とミス・ワカナ

「ラジオでおなじみのワカナ・一郎」
と司会者が紹介するだけで、会場はわあっと沸きかえります。2人の人気は今やかけだし時代の貧乏ぶりからは、想像もつかないほどの急上昇でした。
昭和10年(1935)2人は初めて出会った懐かしい大阪へもどってきます。大阪ではエンタツ・アチャコ(本連載132~138回参照)がブームになっていましたが、ワカナはこの超人気コンビに挑戦します。和服が常識だった舞台にエンタツ・アチャコが洋服姿で上がりますと、ワカナも洋服で登場します。初めて洋服で出演した女性の芸能人は、ワカナだと私は思っています。しかもエンタツがパリッとした英国製の上等背広を着ますと、ワカナはなんとふだん着で出たのです。プライドの高いエンタツが高級漫才だといったのを嫌って、あくまでも庶民派に徹したかったからです。
このころからワカナ・一郎漫才は、ミュージカルコメディ型をやめ「生活型」に変わっていきました。夫一郎との家庭生活、2人のなれそめからかけおち、青島(ちんたお=中国シャントン省)での悲惨な生活、さらにご近所の暮らしむき、つまりどこにでもある当たり前のネタを、独特のペーソスをまぜて語ります。客席は思いきり笑いころげたあと、思わず涙がにじむほどしんみりした気分になり、心から共感の拍手を送りました。
エンタツ・アチャコが今までの古くさい万才を一掃した知的な「喋くり漫才」の創始者であることは確かですが、庶民のごくありふれた実生活をネタにして客席を沸かせたのは、ワカナ・一郎です。こうして大阪は漫才の本場となりました。(続く)

ミス・ワカナ (四)

昭和10年代の大阪興行界は、エンタツ・アチャコを売り出した女興行師吉本せいの率いる「吉本興業」が牛耳り、漫才に転向する芸人さんも増え、百組に近いコンビが誕生しています。
この吉本に対抗して「新興芸能社」が設立され、ワカナ・一郎を看板に、ラッキー・セブン、平和日佐丸・ラッパなどが育ちます。
ワカナは天性明朗でお人好しでしたが、親分肌の包容力もあり、苦労しただけに人情味も豊かで、
「この子はええで。使うてやってな」
と芽の出ない若い子を会社に売りこみました。その中に歌江・照江と名乗る姉妹がいます。そうです、のちに末妹の花江を加えて「かしまし娘」と呼ばれ、一世を風靡(ふうび)したコメディアンたちです。

ミス・ワカナと玉松一郎

そのころ花江はまだ赤ん坊なみ、歌江・照江は何度もワカナに叱られ、泣きべそをかいてセーラー服姿で舞台に立ちました。長女の歌江は今も若い子たちの面倒見のいいことで有名ですが、これは師匠ゆずりでしょう。また、ひろし・輝子という若いコンビもいました。とくにかわいくて陽気な輝子を、
「ウチの若いときとそっくりや。きっとあんたはウチの芸を継いでくれる」
と目の中に入れても痛くないほどひいきにします。このコンビが終戦後大活躍した島ひろし・ミスワカサです。
ワカナの夫・玉松一郎に対する愛情の深さは、初恋のころと変わりませんでした。はっきりいって2人の漫才は、80%はワカナでもっています。しかしワカナはどんなときでも、まず一郎を立てました。契約や巡業なども、あんたの好きなようにして、ウチついていくから…とこんな調子で夫に任せています。
「ワカナ姉さんは、自分よりもご主人が大事でした。ご主人のこととなると、少女のように眼が輝いてきて、いつものろけてばかりでした」
ミスワカサの思い出話にこうあります。
昭和16年(1941)ごろから戦争が激しくなると、芸能界も軍部や警察に妙ないいがかりをつけられて弾圧されます。傑作だったのは、ミス・ワカナのミスが敵性語(英語)だから、禁止せよというのです。野球もストライクは「よし」ボールは「だめ」といいかえよとなって、ボールカウントツースリーは「よし2本、だめ3本」と審判が大声で叫ぶ時代でした。(続く)

ミス・ワカナ (五)

昭和16年(1941)太平洋戦争が始まると、英語は敵性語だと使用を禁じられ、ワカナも警察からミスは敵性語や、使うたらあかんと叱られます。腹が立ったワカナは
「そんならウチ、改名する。メス・ワカナや、文句あるか!」
と啖呵(たんか)を切っています。
寄席に上がれなくなった芸能人たちは、当時の空軍「荒鷲部隊」をもじって「笑わし部隊」を結成、戦場に出て軍隊の慰問活動を始めます。ワカナと夫の一郎も青春の思い出がいっぱいつまっている中国大陸に渡り、野戦病院に収容された戦傷兵士たちを訪れ、せいいっぱい笑わせて慰めました。

ミス・ワカナと玉松一郎

しかし彼女の人生はあっけなく幕を閉めます。戦争が終わりミス・ワカナにもどれると喜んだのもつかの間、翌21年(1946)心臓発作のため西宮で倒れ死亡しました。享年36才です。得意のネタは「ワカナ放浪記」「愛国婦人会」「金色夜叉(やしゃ)」など。映画にも「水戸黄門漫遊記」「黄金道中」「陽気な幽霊」等に出演しています。
昭和54年(1979)彼女の一生を描いた森光子主演、小野田勇作「おもろい女」が大当たり、この年の芸術祭演劇部門大賞が贈られました。
また弟子のミス・ワカサは、師匠没後、宝塚新芸座に入り、朝日放送のラジオ「漫才学校」で活躍、早口の大阪弁でまくしたて、いわゆる女上位漫才を確立しています。彼女も昭和49年(1974)53才没。
ワカナの死後、吉本興業のもとに姿、形から喋りかたまでそっくりな芸人がいるとの知らせが届きます。日向鈴子という名の女性です。彼女は大正9年(1920)東京生まれですが、幼いころから父と一座を組んで大阪から九州まで巡業し、三遊亭柳枝と結婚してからは夫婦で「柳枝劇団」を結成します。
お喋りは天才的でしたが、ほとんど学校には行けなかったため、渡された台本の漢字が読めません。そこで劇団の照明係りとして入ってきた戸田朝治という青年が、工業学校を出ており多少物知りでしたので、
「あんた、これなんという字や」
と教えてもらいます。何度も聞きますから周りが面白がって、朝治に「なんという字」とのニックネームをつけました。
もういうまでもありませんが、鈴子がミヤコ蝶々、朝治が南都雄二です。蝶々は柳枝の浮気に怒り離婚、嫌がる雄二を無理に舞台にあげ、上方トンボと名づけ漫才を始めます。(終わり)