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2014年2月7日ミス・ワカナ (四)

昭和10年代の大阪興行界は、エンタツ・アチャコを売り出した女興行師吉本せいの率いる「吉本興業」が牛耳り、漫才に転向する芸人さんも増え、百組に近いコンビが誕生しています。
この吉本に対抗して「新興芸能社」が設立され、ワカナ・一郎を看板に、ラッキー・セブン、平和日佐丸・ラッパなどが育ちます。
ワカナは天性明朗でお人好しでしたが、親分肌の包容力もあり、苦労しただけに人情味も豊かで、
「この子はええで。使うてやってな」
と芽の出ない若い子を会社に売りこみました。その中に歌江・照江と名乗る姉妹がいます。そうです、のちに末妹の花江を加えて「かしまし娘」と呼ばれ、一世を風靡(ふうび)したコメディアンたちです。

ミス・ワカナと玉松一郎

そのころ花江はまだ赤ん坊なみ、歌江・照江は何度もワカナに叱られ、泣きべそをかいてセーラー服姿で舞台に立ちました。長女の歌江は今も若い子たちの面倒見のいいことで有名ですが、これは師匠ゆずりでしょう。また、ひろし・輝子という若いコンビもいました。とくにかわいくて陽気な輝子を、
「ウチの若いときとそっくりや。きっとあんたはウチの芸を継いでくれる」
と目の中に入れても痛くないほどひいきにします。このコンビが終戦後大活躍した島ひろし・ミスワカサです。
ワカナの夫・玉松一郎に対する愛情の深さは、初恋のころと変わりませんでした。はっきりいって2人の漫才は、80%はワカナでもっています。しかしワカナはどんなときでも、まず一郎を立てました。契約や巡業なども、あんたの好きなようにして、ウチついていくから…とこんな調子で夫に任せています。
「ワカナ姉さんは、自分よりもご主人が大事でした。ご主人のこととなると、少女のように眼が輝いてきて、いつものろけてばかりでした」
ミスワカサの思い出話にこうあります。
昭和16年(1941)ごろから戦争が激しくなると、芸能界も軍部や警察に妙ないいがかりをつけられて弾圧されます。傑作だったのは、ミス・ワカナのミスが敵性語(英語)だから、禁止せよというのです。野球もストライクは「よし」ボールは「だめ」といいかえよとなって、ボールカウントツースリーは「よし2本、だめ3本」と審判が大声で叫ぶ時代でした。(続く)