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2014年2月20日奥田弁次郎・フミ(七)

時は流れ世は改まり、千日前には「アシベ倶楽部」「帝国クラブ」「第一~第三電気館」「キネマ倶楽部」等が立ち並び、道頓堀とともに大阪を代表する興行・繁華街に発展します。

弁次郎フミが茶店を開いたころは、「1坪50銭やるからもろてくれ」とまで言われた土地の価格は、坪当たり3百~5百円にはねあがりました。天才俄師(にわかし)鶴屋団十郎は千日前を気に入り、「改良座」という小屋を設け、弟子の団九郎と俄(即興のパントタイム)を演じますが、これが大いに受けて、やがて上方喜劇の渕源となる曾我廼家(そがのや)芝居が誕生します。

明治中期 千日前絵図

川上音二郎もそうです。書生芝居と称して明治政府を諷刺するお笑い劇を上演しますが、芝居下手の音二郎、誰も笑いません。ヤケになった音二郎が勝手に節をつけた奇妙な歌をどなったのが、あの一世を風靡(ふうび)したオッペケペーです。千日前は大阪のお笑い芸の故郷でもあります。

「父ちゃん。ちっとは働け。母ちゃん毎日泣いてるやんか」
と食ってかかり、父弁次郎の目をさまさせたあのころ小学生だった長男の徳次郎は、大変な秀才でした。あんた外国語やれ、これからは英語やと母フミに勧められ、大阪英学校(京都大学の前身)に入学しますが、ここでも幣原(しではら)喜重郎と首席を争ったほどです。敗戦直後総理大臣になり、日本を救ったあの天才的外交官喜重郎とですよ。

しかし無類の親孝行者の徳次郎は、外交官にはなりませんでした。外国行ったら母ちゃんかわいそうやと行政畑の役人になり、税務や警察関係でも活躍しています。
明治43年(1910)夫の弁次郎が73歳で病没すると、妻のフミも興行の表舞台から姿を消してしまいます。そしてそのフミも、昭和4年(1929)92歳の当時としては珍しい長寿の生涯を閉じました。ふしぎなことに母の葬儀万端をとりしきった徳次郎は、葬儀の翌日、突然心臓マヒで急逝します。享年68。

「あんなに親思いの息子さんや。母ちゃんひとりで淋しいやろ。わし、ついていったあげる」
となったにちがいないと世間は噂しました。

最近ご子孫の奥田幸次郎氏の自宅から、柳行李いっぱい入った資料が発見され、大阪歴史博物館に寄贈、調査研究が進んでいます。(終わり)