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2014年2月20日奥田弁次郎・フミ(四)

明治7年(1874)千日前墓地跡で小さな茶店を始めた弁次郎フミ夫婦は、店の隣に小屋を構え、見世物(みせもの)興行を始めます。

といっても資金がないので知れたもの。チュンチュン太夫(雀)の曲芸に大百足(むかで=実は伊勢エビでこしらえた作り物)、生き人形(ロウ細工のマネキン)、酒呑(しゅてん)童子(大江山の鬼)の操り人形ぐらいですが、そこは口から先に生まれた弁次郎です。おおげさに面白おかしくはやしたて、たまには軽業や女相撲、声色(声帯模写)、火を吐く人間ポンプなども登場させます。

まあ紙芝居に毛が生えた程度ですが、入場料はとりません。そのかわり演目が一つ終わると、フミがザルを持って投げ銭を求めて観客の中に入り、
「あの芸、おもしろか ったでしょ。お好きなだけでいいさかい、ゼニ投げておくんなはれ」
「あの人、じいちゃんばあちゃんに4人の子までかかえてまんね。食うのに困ってはる。助けてあげてな」
と声をかけます。

奥田弁次郎

集まったゼニは折半です。つまりよその小屋とちがって、客に受ければ受けただけ芸人さんの実入りは多くなるのです。これでは芸人さんもはりきらざるを得ません。

一般にギャラは芸歴や年齢、性別や人気度で差がつきますが、ここでは関係がない。なんでもいい、客に受けたほうが勝です。やる気をかきたてるフミの商法は当たり、小屋は繁盛していきました。

やがてプロの興行師たちも、千日前に注目します。次々に芝居小屋や寄席(よせ)が並び、射的(的の人形や菓子を射落とす遊び)にだるま落とし、風船釣りに金魚すくいなどの子供向きの遊戯施設も登場。当然うどんにそば、おでん・汁粉といった屋台が立ち、発展して酒や寿司を扱う飲食店も生まれます。

心斎橋・道頓堀とセットにして千日前を繁華街にしたい行政の思惑も加わり、弁次郎フミ夫婦のまいた種は、芽をだし枝葉を伸ばし、花が咲き始めました。
「わいはじきに使うてしまうさかい、かあちゃん、お前がためといて」

興行が面白くなった弁次郎は、もう大ぼら吹きの賭博好きではありません。ゼニのことはいっさいフミに任せ、新しい企画を次々にたて、猛烈に働きだします。フミは質素倹約型ですが、殖産の才能は人一倍ありました。(続く)