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2014年2月21日吉本 せい(八)

昭和に入って戦争が泥沼化し超不景気、大阪名物の通天閣は経営苦しく、倒産寸前でした。せいはよその業者に持っていかれたらなにわっ子の恥やと、大金を投じ購入するが、昭和18年(1943)、映画館大橋座からの出火で類焼、通天閣の大半は焼け落ちます。

残骸の鉄塔類は翌年2月、軍の金属回収令のため壊され、3百トンの鉄屑になり、当然武器に化け戦場に送られるはずでしたが、同20年積みあげられていた砲兵工廠(こうしょう=兵器製造工場。現・大阪ビジネスパークあたり)の広場で空爆にあい、すべて熔解されてしまいます。

25万円もの丸損でしたがせいは、
「ああよかった。人を殺すタマにならなんで、ほんまによかった」
と胸をはって言ったと伝えます。

大蓮寺(天王寺区下寺)にある「吉本芸人塚」

彼女は紺綬褒章や府知事表彰などの栄誉を受けていますが、その理由は本職の芸能活動ではなく「公共慈善ノ志 マコトニ奇特ナリ」でした。
この昭和20年は日本の大都市の大半が大空襲を受け、大阪市も徹底的に破壊されます。せいの経営したコヤのほとんども全滅。やっと同年8月終戦になり喜んだのも束の間、翌21年学徒動員から戻ってきた秘蔵っ子の次男吉本穎右(えいすけ)が倒れたのです。
せいは夫の泰三との間に、2男3女がいます。これほどの大活躍をしながら、5人の子供を産み育てたとは、昔の女性は偉いですね。ただ長男の泰之助は夭折したため、せいはとりわけ穎右をかわいがっていました。彼は府立北野中学校から早稲田大学仏文科に進学した秀才です。しかし在学時代からOSK(大阪松竹歌劇団)のスター三笠静子と恋愛し、せいに猛反対されます。物分かりのいい母親せいなのに、これだけは強情でした。

翌22年5月、穎右は24歳で死亡します。静子は懐妊していましたが、葬儀に出ることも拒まれます。そのかわりせいは、棺にそっと静子の写真を入れました。この静子がのちにブギの女王と呼ばれて一世を風靡(ふうび)した笠置シヅ子、赤ちゃんが長女エイ子です。
以後せいは、吉本のすべてを実弟の林正之助に譲り、二度と表舞台には出ず、甲子園の私宅にひきこもりました。昭和25年(1950)3月、62歳没。四天王寺での社葬で弔辞を読んだ花菱アチャコは途中で号泣、とぎれてしまいます。大蓮寺(天王寺区下寺1丁目)に、「吉本芸人塚」が設けられています。(終わり)