わいワイ がやガヤ 町コミ 「かわらばん」

みなトコ×みなとQ みなとQ編集室 06-6576-0505

2014年2月21日吉本 せい(三)

明治45年(1912)4月、大阪天満宮の裏に「第二文芸館」というコヤを開いたせいは、猛烈に働きだしました。お茶子(サービス係)はむろん、はねたあとの掃除で落ちているミカンの皮を拾って乾かし、漢方薬店に売りにいきます。雨の日は下駄箱の番をして、下駄についた泥をきれいに落としてやる「お客様は神様です」と言ったのは、三波春夫ですが、最初に言ったのはせいでしょう。サービス第一、笑いころげた客がキングやクイーンになった気分で帰ってもらえるのが、彼女の商法でした。

もちろんせいだけじゃない。夫の泰三も、あんなに借金まみれの荒物問屋「箸吉」のぐうたら主人だったのが、嘘のように働きます。働くとかならずカネがたまる。たまるとますます働きたくなるのが人情です。

せいの弟林正之助もよく姉を助け、3人とも自分でも気づかなかった商才を発揮。福島に第二会館、新世界に一号館、松島に広沢館、キタに永楽館と、今でいうチェーン店のコヤを増やしていきます。いずれも場末にあって経営に失敗し、つぶれかかっていたコヤですが、泰三・せい夫婦は手品師のように、次々と再生させていったのです。
せいはこれらのコヤを、格安で手に入れています。交渉係にかわいい愛嬌のある若い芸人の娘さんたちをあてたからです。どこの国でもいつの時代でも、男どもはこういった娘さんには弱い。コヤの経営者たちは気っぷのいいのが自慢で、そんならそれで手を打とうと、せいの商法に落ちてくれます。わずか数年で夫婦は5軒のコヤを持ちました。

興行の常識をくつがえすような経営を続けたせいは、大正7年(1918)芸能人なら誰もがあこがれる法善寺(中央区)あたりに、吉本興業の本拠となるコヤを創設する計画をたてます。泰三は手をふって、
「あかんあかん。あっこは紅梅亭と金沢亭があるやないか」
とあわてて制止します。紅梅亭は三友派の、金沢亭は桂派の根城で、落語界はこの二派が牛耳っています。
「そやけど金沢亭の客足は遠のいてるで。あのコヤを買うて本丸にせえへんか。ヨシモトのハクがつくやんか」
せいは、こともなげに言い返します。たしかに三友派は七代桂文治や三代桂文団治らの人気者で満員ですが、金沢亭は出演者の老齢化で5百人の客席が半分ほど空席でした。(続く)