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2014年2月21日吉本 せい(二)

家業の荒物(あらもの)問屋の経営を怠けて芝居や剣舞に凝り、借金地獄にあえいでいた夫吉本泰三との夫婦げんかに疲れはてたせいは、ある日請求書の束をかかえながら、
「あんさん。そないに芸事がお好きやったら、ふたりでコヤ(興行する建物)を持ちまへんか」
と、涙声で言いました。

明治45年(1912=せい24歳、泰三30歳)せいは、天満(北区。現在繁昌亭のあるあたり)に文芸館と名づけたコヤを開き、吉本興業のスタートをきります。ここにあった寄席第二文芸館が経営不振で倒れたのを、せいが吉本家の全財産を処分し、あちこち奔走してかき集めた金2百円也で買収、改修したコヤです。

当時大阪の演芸は、落語が王様でした。その落語界は、法善寺の金沢亭を本拠にする桂派と、同じく紅梅亭を根城とする三友派の二派に分かれ、落語家たちは所属する派の系列のコヤにしか出演せず、ライバルどころかたがいに敵意をむきだしにしてにらみあい、戦争状態にありました。

ですから文芸館に出演してくれる名のある落語家は、ひとりもおりません。ましてせいは芸能界では素人だ。仕方なく彼女は泰三のつきあっていた芸人仲間のコネを頼り、物真似、音曲、剣舞、曲芸、軽口(かるくち=役者の声色を使った笑芸)、怪力、琵琶、義太夫と、これまで大道芸だった無名の人たちに声をかけ、文芸館の舞台にあげたのです。
しかも出演料にランクをつけない。年齢・性別・芸歴などはいっさい無関係。給料はすべて平等。これにどれだけ客席をわかせたかでイロをつけ上乗せします。今まで道ばたや寺社の境内の隅っこで演じていた芸人たちは、コヤでやらせてもらえるだけで感激し、汗水たらして大熱演します。入場料はたったの5銭、これは他のコヤの3割程度です。
「こらおもろい。あんな芸、初めて見た」
と評判になって文芸館は連日大入り満員でした。これらの無名の芸人たちから、百面相の右楽、軽口の団七・団鶴、落語の花団治・小南光ら、のちに全国的に活躍する芸人が育っていきます。
文芸館は開演が午後5時、閉演は11時という夜型興行です。さあ、せいは働きます。めちゃくちゃ働きます。自らお茶子(コヤのサービス係)になって開演2時間前から座ぶとんを運び、2百人定員の1割増しも敷きました。(続く)