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2014年2月21日造幣局の人たち(八)

造幣局といえば、かならず合わせて紹介される重要文化財「泉布観」北区天満1丁目)にふれておきます。
明治4年(1871)局の応接所として誕生した建物で、局と同じく英国人技師ウォートルスの設計。ルネサンス式レンガ石造2階建。16本の丸柱はすべて花崗岩1本もの。イギリス製カットグラスを使用し、コロニアル様式の大阪最古の洋風建築です。
翌5年明治天皇が行幸「泉布観」と命名されます。泉布とは中国の貨幣のこと。さすが天皇だ、ガクがあると感心したら、実はお付きを心斎橋の三木書店に走らせ、司馬遷『史記』から泉布の文字をみつけてこさせたそうです。観は館と同語。天皇はこのときまだ20歳。工場視察のおり大天秤の16キロもある分銅を、面白がって軽々と振り回された、との逸話が残っています。

また天皇は大の相撲好き。大阪代表と薩摩代表の力自慢を集めて50番の相撲をとらせ、大阪方が勝ったので西郷どんが口惜しがったそうです。明治26年から2年間、第4師団長北白川宮能久親王が泉布観を宿舎として使用するなど、皇族や外国要人たちも数多く訪れています。毎年3月下旬に一般公開されるので、ぜひお訪ねください。
造幣局は貨幣の製造だけではない。地金分析や精製に硫酸が必要なので「硫酸製造所」が付設され、コークスや苛性ソーダも作られます。この過程で生じた石炭ガスを利用して、明治5年4月には720基のガス燈が並び、薄暮になるといっせいに点火され「大阪の蜃気楼」とよばれて、大勢の見物人が押し寄せました。英語・物理学・化学を教える学問所「日進学舎」も誕生し、一般市民にも開放、前回紹介した大野規周らが教壇に立ち、多くの学者の卵を育てています。
造幣局は大阪近代企業の生みの親とも言えます。週勤務6日制、土曜日は半ドン、労働時間は1日7時間、退職金に年金制度、出退勤時間の厳守、残業手当ての支給、これらはいずれも造幣局が定めた労働条件が出発点です。事務方も和紙とじ大福帳や、筆・墨などの筆記用具は禁止。インクとペンによる複式簿記に改訂され、万事丼勘定だった大阪の商工業者たちの目をさまさせました。
近年局内の「造幣博物館」が、リニューアルオープン。日本や諸外国の貨幣・勲章、金属工芸品など4400点、その超豪華な収蔵内容に、誰もが驚嘆することでしょう。(終わり)