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2014年2月21日造幣局の人たち(七)

科学知識の乏しい日本人を小馬鹿にした傲慢な造幣局貨幣鋳造技師長英国人キンドルでさえ、「オーノは東洋の手品師だ」と感嘆した技師大野規周には、ひとつだけ我慢のできないことがありました。
それは日本の風習が時間にルーズだったことです。とくに大阪では「大阪時間」ということばがあり、会合時間の1時間遅れはあたりまえ。むしろ遅れて行くのが遠慮深い人だとほめられるありさまでした。当然出退勤時間も一定しない。オランダ帰りの規周には、これが最大の不満のタネなのです。
明治4年(1871)2月19日午前9時ジャスト、突然カランカランと威勢のいい音が流れる。局内にいた職員も、出勤途中の職員もなんじゃあの音はと見上げると、本館屋上に置かれた大時計が鳴っています。高さ2㍍の櫓に直径1㍍の西洋文字盤、分銅の重みで時を刻む仕掛けになっており、自動的にベルが作動したのです。9時の始業、12時の休憩、1時の再開。5時の退勤にかならず鳴り響き、従業員たちも自然に時間を厳守するようになりました。

この大時計は構内の「造幣博物館」に保存(ほかに彼の製作した天秤・羅針盤・温度計等も)され、今も正確に時を刻んでいます。
規周はかように先進的な西洋的理化学者でしたが、保守的な性格でもありました。キンドルの丁髷廃止令で、造幣権頭(局長代理)久世治作でさえも断髪したのに規周は、
「丁髷は日本人の魂だ。魂が無ければ良心的な和製器具のできるはずはない」
と言い放ち、いかにキンドル治作が説得しても聞き入れません。古風な律義者で冗舌を嫌い、つきあい下手だが親切で、秘法も惜しまず部下たちに教え、造幣局の発展に大きく貢献しました。明治19年(1886)66歳で他界。長男規好も同局技師を勤めています。
桜宮(都島区中野1丁目)の境内に「大野規周君記念碑」があり、刻まれた菊池純の撰文で、彼の業績を知ることができます。そのなかに
「明治6年、明治天皇に天球儀を作って献上したところ、天皇はその精緻巧妙さに感嘆され、金筐(黄金製の丸い箱)を下賜された」
との内容があります。
明治13年12月の読売新聞に、「大野規周氏天満川崎樋ノ口に、懐中電灯の製造所建設を発起」とあったのが、目につきました。(続く)