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2014年2月21日造幣局の人たち(六)

造幣局貨幣鋳造技師長英国人キンドルと、日本人職員との対立は、日増しに激しくなります。キンドルは驚くほどの高給をとるくせに、すぐ休暇をとって物見遊山にでかける。気が向かないと肝心のことも教えない。職員たちを大声で罵り、バカ者呼ばわりをする。感情の起伏が激しくお天気屋、えこひいきの名人とくるから、不平不満は爆発寸前です。
「な、口惜しかったら腕をあげよう。我々だけで作れるまでの辛抱だ」
技術習得までは目をつぶれとなだめていた権頭(局長代理)久世治作も、ついにがまんができず、明治9年(1876)先頭に立ってキンドル追放運動にのりだします。風俗・習慣の相違もあったでしょうが、キンドルは他の外国人にも嫌われており、感情的対立だけではなかったようです。

政府筋はあわてて治作の説得にのりだし、嫌がらせや脅しまでするが効果はない。キンドル自身も信頼していた治作の裏切りだと激怒し、造幣局からとびだしたため、紛争はなんとか落着します。しかし今度は治作が嫌われた。彼は陋習に縛られた諸制度の改革・近代化を強引性急に進めすぎたのと、キンドルなきあとの技術陣に、何度となく無理な注文を要求して浮いてしまい、おまけに頑固一徹、誰の言うことも聞かなかったから、やがて罷免のような形で身を引きました。しかし彼こそ造幣局創立時代の最大の功労者です。

技術といえば大野規周も忘れ難い。規周は文久2年(1862)幕府派遣の留学生としてオランダに渡り、精密機械・器具の製造技術を徹底的に学びます。ときに42歳、大変な晩学ですが、ヨーロッパの近代文明に驚嘆すると同時に、「器用さなら日本人は西洋人に負けるはずはない」と闘争心をかきたて、幕命にさからって6年間も滞在します。
帰国したときは幕府が倒れ、すでに新政府が発足しており、目を回して今浦島の気分になりますが、政府は彼をひっぱりだし造幣局の技師を委嘱します。キンドルはじめ外国人技師たちは、日本人技師の知識と技量の低さにあきれ、なにかにつけて高飛車に出て嘲笑するが、規周にだけは一目置きます。まず流暢な語学力に驚き、次々に制作する器具類の工夫に感心。温度計・羅針盤・測量器具・地金の量を測る器械天秤等は、すべて西洋製でしたが、彼は自分流に改めて作り直し、性能も優れしかも安価。キンドルでさえ「オーノは東洋の手品師だ」と感嘆します。(続く)