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2014年2月6日林 歌子 (七)

大正6年(1917)歌子らの建設反対運動は完敗し、夜も煌々(こうこう)と光り輝くまるで不夜城のような日本一の大遊郭「飛田遊郭」が竣工します。歌子たちは巨大な建築物を回りながら、マイクで「ハンタイ、絶対ハンターイ」と、むなしく叫びつづけるばかりでした。
市民の支持も高かったのになぜ失敗に終わったのでしょうか。答えは簡単です。遊郭設置を推進した府議会・市議会の議員の中に、かなりの遊郭関連業者がまじっていたからです。それに府・市議会には、1人の女性議員もおりません。いや、いないどころか女性には立候補はおろか、投票権すらなかったのです。
戦い敗れた歌子は、私たちの代表を送りこまねばどうにもならないと考え、「婦人参政権獲得運動」に方針をきりかえます。
「なぜ女は政治からしめだされているのか」「どうして投票権すら奪われているのか」

林 歌子氏

と歌子たちは訴えますが、軍国主義に染められていく世間から、白い眼でみられるようになります。
それでも彼女はくじけません。「日本婦人平和協会」の発起人となり、ガントレット・恒(つね、旧姓山田。国際的な平和活動家)とロンドンの軍縮会議に出席、また「日本矯風会会頭」に就任、あるいは中国に渡り北京に孤児救済施設を開くなど、海外にも活動範囲を広げながら、女性の政治参加を認めるよう訴え続けます。けれども軍国日本は中国侵入政策を強行し、軍事衝突から戦争に拡大する流れのなかで、歌子たちの運動は徹底的に弾圧されてしまいました。
昭和20年(1945)本拠の「大阪婦人ホーム」は強制疎開の名目で破壊され、高齢も重なって気力の衰えた歌子は、茨木市のホーム分館に移り、静かに祈りの生活に入ります。
翌21年3月24日、81歳で他界。病床で占領軍が「公娼廃止に関する覚書き」を出したと聞いた歌子は、
「戦争に負けてよかったね」
と、ぽつりとつぶやいたといわれます。その8ヶ月後に「女性参政権」が成立し、初の女性国会議員が誕生するのです。
いまセックス産業は花ざかり。売買春はとっくに法律で禁止されたはずなのに、援助交際とかなんとかサイトとか、あやしげな商いがはやっています。あの世で歌子さんはどう思っておられるでしょう。もうひとつ、若い娘さんたちにお願いがあります「センキョはジャマクサー、投票ヤーメタ」なんていわないでくださいね。(終わり)