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2014年2月6日林 歌子 (五)

明治41年(1908)歌子が経営する女性の自立と権利向上をめざす施設「大阪婦人ホーム」に、松島遊郭からしづという接客婦が助けてと逃げこんできました。
しづは幼い頃、両親と死別し叔父に引き取られますが、この叔父がひどい男で物心つかぬうちから子守奉公に出され、女中・店員・工員と働かされ、年頃になると遊郭に1300円で売りとばされたのです。お金は全部叔父が着服、これを前借りだと称し、しづが利息をつけて5年間で返済する証文が入っていました。このお金は大変な高額です。
しづは毎日めまぐるしく変わる客を相手に働きますが、やがて性病をうつされ、客がとれなくなります。仕方なく同僚の炊事・洗濯・店の掃除などにこき使われますが、遊郭の主人から治療どころかこのごくつぶしめと殴る蹴るの暴力をふるわれ、おまけに病気もひどくなり、とうとうたまらなくなって、風のたよりに聞いた婦人ホームに救いを求めた…というのです。
はじめて遊郭の実情を知った歌子は、涙をぬぐってこう決心します。

「真の女性解放は遊郭を廃し、地獄の底であえいでいる女たちを助けだすことから始めるべきだ」
「女性の体を商品のように値ぶみする売買春産業ほど、人間の尊厳をふみにじるものはない」
翌日から大阪婦人ホームには、遊郭に雇われた屈強な男たちが押しかけ、
「女をかくしたやろ、出さんとひどいめにあうぞ」
と脅迫します。しかし歌子は必死になってかくまい、医師の診察を受けさせ、しづが小康をとりもどすと近所の町工場で働いてもらいます。
「働いて生きる苦しみと喜びを自覚する。これが自立の第一歩だ」
というのが歌子の信念でした。
その頃の町工場は、1日に10時間労働、休みは月3回、休憩は昼休み30分だけ、給料は日給80銭という厳しい条件が一般的でした。ところがしづは嬉々(きき)として喜び、
「先生、まるで極楽にいるようです。お金ためて、きっとホームに恩返しします」
といそいそと働きに出ます。その姿をみて歌子は、「売買春禁止運動」を一生の仕事にしようとかたく神に誓いました。
翌42年7月、のちに「キタの大火」と呼ばれる大火事で、「曽根崎新地遊郭」が類焼します。歌子はチャンスだと立ち上がりました。  (続く)