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2014年2月6日林 歌子 (四)

 

女性の地位と権利の向上をめざす「万国矯風(きょうふう)会大会」に参加するため渡米した林歌子は、男性中心の日本の社会構造を変革しなければ女性の人権はふみにじられるばかりだと考え、積極的にいろいろなところで講演し、日本の実情を語り、
「女性の社会進出を妨げる男性優位社会を打破する拠点を設けたい」
と訴えます。各国女性団体やキリスト教団体などもカンパし、募金1万5千円を集めることに成功、明治40年(1907)帰国してこれを資金に大阪市北区中之島に「大阪婦人ホーム」を設立しました。ホームの趣意書に、「婦人ノタメノ職業ヲ紹介シ、保護救済ヲ目的トス」と記されています。

女性がなぜ男性の庇護下にあり、理不尽な父親や乱暴な夫のふるまいを甘受(かんじゅ)せねばならないのか、それは女性に収入がないからだ…歌子の思想はここから出発します。「女、三界に家なし」「娘時代は父に従い、嫁いでからは夫に従い、老いては子に従え」といった江戸時代の古くさい「婦道」がまだ残っている世の中です。
①女性の自立には経済力が必要だ。まずホームでは手に職をつけさせよう。
②横暴な男たちから逃げてきた女たちの避難所にしよう。ホームは現代のかけこみ寺だ。
歌子たちはとりあえずこの2点をホームの努力目標にします。
この時代、女性に仕事をあっせんする公的な職業安定所は、ほとんどありませんでした。たいていは営利が目的の、俗称「口入れ屋」が世話をしますが、雇主と結託(けったく)して不当な仲介料をとり、できるだけ低賃金に押さえるのが腕がよいともてはやされました。ですから大阪婦人ホームは手仕事を教えただけでなく、無料の職業紹介所の機能も発揮します。
明治41年(1908)そんな歌子の人生観を変える大事件がもちあがりました。松島遊郭(ゆうかく。当時西区内)から、しづという接客婦が助けてと泣きながら逃げこんできたのです。まっ青になって語る彼女の身の上話に、歌子はもらい泣きします。
しづは幼いころ両親がはやり病であいついで亡くなり、叔父に引き取られました。ところがこの叔父がひどい男で、自分のくいぶちぐらいかせいでこいと子守奉公に出し、女中・店員・工員と働かされ、年頃になると松島遊郭に売りとばしてしまったのです。  (続く)