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2014年2月6日早川 徳次 (三)

 

「なんとかして国産テレビの普及化をはかろう」
と考えた早川電機(シャープ株式会社)の創業者早川徳次は、もと大相撲力士力道山が日本で初めて興行する
プロレスとタイアップします。
昭和29年(1954)アメリカから帰国した力道山は、世界タッグチャンピオンシャープ兄弟を相手に、柔道の木村政彦7段と組んで、世界選手権大会を興行します。徳次はこれをテレビで中継し、宣伝効果をねらって街頭にタダで見られるテレビを設置しました。なにしろ敗戦で頭のあがらぬアメリカの大男兄弟を、小柄な力道山がたたきのめすのですから痛快無比。交通整理のための警官が出動するほどの大人気、テレビは3種の神器の一つになり(あとは冷蔵庫・洗濯機)、爆発的に売れます。徳次が大企業の経営者になったのはこれからです。

しかし彼はなに ごとにも独占を嫌いました。他社が類似の製品をだしたと部下が訴えても、人に真似される製品が作れたとは嬉しいといいきかせ、ナショナルやサンヨーとの競合をむしろ喜びます。昭和38年には太陽電池、同39年には卓上電子計算機を市場に出しますが、いずれも国内ではシャープがもっとも早いです。
幼いころ徳次は継母にいじめられ、戸外にほおりだされました。寒風に薄着1枚、こごえてお母ちゃん、カンニンして…と泣いていたところ、盲目の女性がとおりかかり、継母にとりなしてくれたことがあります。
ようやく小さい町工場の主人になったのに、関東大震災で家屋・工場どころか最愛の妻と2人の子供を失った悲惨な体験も持っています。そのせいか偉くなってからは、生活苦にあえぐ人たちや、身体に障害のある方たちの雇用には積極的で、昭和25年には身障者だけの合資会社「早川特選金属工場」を設立しています。現在ならともかく、まだ敗戦のどん底生活が続いていた時代の話ですよ。
同35年、カラーテレビ21型を開発した徳次は、10年後社長職から退き、会長になりました。シャープは家電メーカーからエレクトロニクス企業へ飛躍しますが、会社経営にはほとんど口を出さず、中小企業経営者たちの相談相手を務めます。不況のときほど相談者は多く、世に「早川詣(もう)で」と呼ばれます。昭和55年(1980)6月、87歳没。
早川福祉会館(東住吉区)は、彼の寄金をもとに設立された自立支援センターです。(終わり)