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2014年2月6日鶴 彬 (一)

鶴彬(つる・あきら)は、「手と足をもいだ丸太にして返し」という痛烈な句を詠み、反戦川柳作家のトップにあげるべき人物です。
彼は明治42年(1909)、石川県の高松町で生まれました。父は竹細工職人喜多松太郎、母はスズ、その次男で本名は喜多一二(かつじ)といいます。生後すぐに機屋(はたや=おりもの業)を営んでいた叔父喜多弁太郎の養子にもらわれますが、頭がよくて読書好き、文章も上手な子どもでした。ところが叔父の店が倒産し、泣きながら上の学校にやってと頼んでも聞き入れられず、小学校を出るとすぐ丁稚(でっち)奉公にやられます。
あちこちの商店や町工場でこき使われながら、周りがびっくりするほど難しい本を読みふけり、いつしか左翼的な哲学書や思想書にのめりこんでいきます。

鶴 彬

大正14年(1925)、川柳雑誌「影像」や「氷原」に喜多一児のペンネームで、「神さまよ今日のごはんがたりませぬ」「暴風と海との恋を見ましたか」など、キラリと光る作品を発表します。まだ16才です。
翌15年、此花区四貫島にあったいとこの喜多市郎を頼って来阪、町工場で汗と油にまみれて働きますが、重労働のわりに安い賃金に怒り「五十世紀殺人会社殺人デー」という会社を批判した句を詠んでいます。
そのころ川柳誌「新生」を主宰するマルキシズム派の、森田一二という作家がおり、
「社会を風刺したり揶揄(やゆ=からかう)するだけでは、寝言と同じだ。さまざまな社会矛盾に、
体を張って対決せねばならぬ」
と常に主張します。一児は共鳴し彼を訪ね、昭和2年(1927)その紹介で上京「川柳人」を刊行していた有名な川柳革新運動家井上剣花坊・信子夫妻の指導を受け、夫妻の勧めで故郷高松町に帰って、森田一二の思想を実践することに決めました。
筆名を鶴彬と変えたのはこれからです。今までのいっさいの過去を捨てると宣言、全日本無産者芸術連盟(ナップ=プロレタリア芸術を実現するための文芸団体)に加入、過激な作句を発表します。「踏みたるは釈迦とは知らず蟻の死よ」「めかくしをされて阿片を与へられ」「ロボットを増やして全部馘首(かくしゅ)する」「干いわしのごとく群衆眼をぬかれ」「街路樹は赤くみどりを去勢され」 など、川柳とはこっけいなユーモア文芸だという常識を、破ったものばかり作ります。(続く)