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2014年2月6日松と竹の兄弟 (四)

大正12年(1923)9月、関東大震災のため「東京新歌舞伎座」が廃墟と化しました。興行界の革命児といわれた双子の兄弟白井松次郎・大谷竹次郎は茫然自失(ぼうぜんじしつ)、さすがの松竹もここに命運尽きたかと思われます。
しかし、ややあって竹次郎は、
「もういっぺんやる。東京に皆さんが住んでもらうために、ぜったいに歌舞伎座は要る。娯楽こそ
人間が生きるエネルギーだ」
と叫びました。東京はもう住めない、何度も大地震が起こる、地方に行きなさい…と政治家から学者までこう語った時代の話です。

白井 松次郎(左)
大谷 竹次郎(右)

竹次郎は山ほど借金し、大林組に頼んで震災に強い鉄筋コンクリートの大劇場を建設します。こけら落としには歌右衛門、羽左衛門、幸四郎、吉右衛門らトップスターが出演し、心配した客席は超満員、自分らの住む家もないのに観劇に来てくれたのです。竹次郎は大阪からかけつけた兄松次郎と抱きあって、人目もかまわず大声で泣きに泣きました。 松次郎も着々と事業を進めます「大阪歌舞伎座」「松竹座」「文楽座」等を建設・運営し、敏腕を発揮します。この松次郎に挑戦したのが、阪急の小林一三でした。一三は若いころ小説家を志した文学青年で、電鉄や百貨店を経営する事業家になっても忘れられず、宝塚少女歌劇を結成して自ら脚本や演出を担当したロマンチックな男です。
昭和7年(1932)一三は東京の有楽町に「東京宝塚劇場」を創設、これを省略して「東宝」と称する映画会社を作り、打倒松竹をめざして映画制作に入ります。負けるものかと松竹も対抗し、この競合が日本の映画界の発展に大きく貢献するのです。
戦後、空襲で壊滅状態になった東京・大阪で、兄弟はいち早く立ち上がります。あの時代の映画がどれほど生きる勇気を与えたか、ご存知の方は多いでしょう。昭和26年(1951)兄松次郎は74才で死去、弟竹次郎はこの年日本で初めての総天然色映画(当時のことば「カルメン故郷に帰る」を、元・子役の高峰秀子を起用して制作しています。モノクロ映画が終わるのはこれからです。年老いても会長として松竹の先頭に立ち、同42年(1967)90才の天寿を全うしました。
「な、大きゅうなったら、母ちゃんに楽させような」
貧乏のどん底で幼い兄弟はこう誓いました。母の笑顔が何よりも楽しいと語った兄弟は、親孝行の手本だといわれます。(終わり)