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2020年10月28日◆保存版 港区の軌跡 わが町 今昔 知っトコ 

 

1925年に誕生した港区は、2025年に100歳になります。当初は、今の大正区と九条の一部を含み、戦前の人口はおよそ30万人。区内だけでも小学校が20校あり、大阪市内最大の人口を誇りました。
江戸時代の新田開発に始まり、大阪港が開港した頃には、天保山沿岸の牡蠣や市岡新田の西瓜が有名で、漁業や農業も盛んだったようです。大阪市初の市電が開通し(九条~築港間)、東洋一の規模と言われた大阪市立運動場(現長居陸上競技場)や、同じく東洋一と謳われた高さ30mの飛行塔があった市岡パラダイスもできるなど、大勢の人が集まる町でした。
戦時中、大阪港が軍事拠点だったことで標的となり、大阪大空襲では港区のほぼ全域が焼け野原に。戦後復興と高潮対策として行われた前例のない区画整理事業では、港区の87%もの土地を盛土して、地面を丸ごと2mも嵩上げし、家屋を丸太で移動する光景もあったようです。
昭和の中頃には、ジェーン台風や第二室戸台風の浸水で被災しながらも、国際見本市会場(現インテックス大阪)が完成し、弁天埠頭がフェリーで賑わい、平成に入ってからは海遊館やORC200、八幡屋公園や大阪プール等、次々と現在の施設が完成しました。
今の私達にとってはこの風景が当たり前ですが、およそ300年前(江戸時代)に生まれたこの地は、戦災や天災を乗り越え、時代と共に移り変わってきました。そしてこれからの未来はもっと明るくなるはず、というより明るくできます!港区という名が存続するかは分かりませんが、地域の力で明るい未来をつくっていきましょう!
(2020年10月末現在)

 

 

みなトコではたくさんの方々のご協力のもと、
港区の昔懐かしい写真と、歴史をご紹介してきました。
ご協力いただきました皆さん、本当にありがとうございました!
この場をお借りして改めて御礼申し上げます。(写真は過去のみなトコから抜粋)

 

 

2016年7月に創刊してから、あっという間の4年半でした。長年住んでいる方はもちろん、最近引っ越して来た方や子どもたちにも地元を好きになって欲しいと思い、港区の歴史や地域の活動、子どもたちの頑張りを中心に紹介してきました。身近にいる人たちの想いや夢に向かう姿を知ることで、少しでも港区に愛着を持ってもらえていたら嬉しく思います。
自分が生まれて40年。近所の駄菓子屋さんや工場がなくなったり、新しくマンションが建ち並んだりと、街の風景は移り変わりましたが、新陳代謝だと考えれば当然のことかもしれません。見慣れたものが変わっていく寂しさはあるものの、未来へ向かうためには必要なことかなと思うようになりました。もし仮に港区という名称がなくなっても、この土地がなくなるわけでもなく、地域のつながりはこれからも続きます。みなトコの発行は終わりますが、また違った形で、未来を担う子どもたちのために活動していきたいと思います。最後に、読者の皆さんからのたくさんの投稿や写真提供、表紙撮影や広告掲載等、多くの方に支えられ、大変感謝しています。皆さん、本当にありがとうございました!元気あふれるみなとっ子の、未来は明るい!