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2014年2月17日下村彦右衛門(三)

享保15年(1730)大坂心斎橋筋(現・中央区)で呉服の卸(おろし)店「大丸」を経営していた下村彦右衛門は、共同出資者の八文字屋甚右衛門と、世にもふしぎな別れかたをしています。大坂の店と、店がためたすべての現金を分け、クジを引いて勝ったほうが店、負けたほうが現金をもらって別れようというのです。
「彦右衛門の運強かりけむ勝ちクジを、八甚は負けクジを引く。八甚後悔せしも是非(ぜひ)なく大金持ちて去り、次第(しだい)に衰へたりとぞ」
と、古書に記されています。開店して5年目のこと、彦右衛門43才でついに独立したのです。もしクジに負けていれば、現在の百貨店大丸はなかったと思います。
彦右衛門は世間の噂を大事にしました。

心斎橋 大丸

「ええか、噂はこわいぞ。風評ひとつで店は繁盛したり没落したりする」
「噂はどうして生まれるかわかるか。店先きの応待がすべてや。口のききかた、頭のさげかたひとつが噂になる」
と、番頭、手代から丁稚(でっち)にいたるまでこう教えた彦右衛門は、
「たとえ子どもでもお金持って買いにきたら、殿さまと同じあつかいせえ。どんな安物でも買いなすったら、王さま気分にして帰しなはれ」
と、客あしらいの大切さを従業員から家族の骨の髄(ずい)まで、たたきこみました。
そんな彼の耳に、名古屋の徳川宗紀が紀州の徳川吉宗と将軍争いをして負け、やけになって遊びまわり、ぜいたくの仕放題になっているとの噂が入ります。
「お上が華美に走れば、民も奢侈(しゃし=身分をこえた暮らし)に流れるはずだ」
と名古屋に支店をだし、とびきり高価な呉服をあつかい、これが大成功をおさめます。
元文3年(1738)彦右衛門は江戸に進出します。江戸っ子は宵ごしの金は持たぬが自慢のタネで、キリギリス型の浪費傾向にあった時代です。日本橋伝馬町に店を構えてわずか4年、大坂本店よりも大きくなり、彦右衛門は京・大坂・名古屋・江戸の四都を制圧するトップクラスの大呉服商になりました。
こうして萌黄(もえぎ)色の地に、○の中に黒で大の字を染めぬいたいやに目立つふろしきで包んだ商品を荷車に山と積み、同じデザインのはっぴを着た車夫たちが、威勢のいい掛声で走り回る光景が、各地で見られます。(続く)