わいワイ がやガヤ 町コミ 「かわらばん」

みなトコ×みなとQ みなとQ編集室 06-6576-0505

2014年2月17日田中 絹代 (六)

東京で空襲の始まった年、清純な娘スター田中絹代は、軍国の母役に転じますが、アイドルとしての人気はまだまだ衰えませんでした。
しかし人間田中絹代の実生活は、淋しく幸せの薄い毎日だったのです。スターなるがゆえ、会社やファンが要求する虚像を日常生活でも演じなければなりません。もちろん気軽なお喋りのできる友だちは、ひとりもおりません。買物も食事も自由にできず、あいかわらず母娘2人暮らしです。
その母ヤスは経済音痴のうえ、無類のお人好しでした。かつて故郷の下関で父久米吉が早世したとき、親切ごかしに寄ってたかって資産をまきあげた親類筋は、貧乏のどん底で母娘が大阪に夜逃げしたとき、鼻もひっかけなかったくせに、絹代の成功を知るや砂糖にたかる蟻のように群がってきます。ヤスは愛想よくすぐにお金を渡しました。

田中 絹代

敗戦後絹代は誰もが 目を回すような大変身をとげます。きっかけは昭和23年(1948)溝口健二監督の映画「夜の女たち」に出演したことです。戦争に負けて廃墟と化した大都会の夜には、生きるために転落した夜の女(当時のことばではパンパン)たちが、たむろしていました。
健二は今まで国民が抱いていた絹代のイメージを、徹底的に破壊し、次から次におぞましい演技を要求したのです。彼女はすでに38才になっていましたが、あのとおりの美貌です。美しいだけに凄絶(せいぜつ=むごたらしいほどすさまじい)です。絹代のファンたちは顔をおおい、まともには見られませんでした。しかし評論家たちは絶賛します。
一般にアイドル女優の人気は短いものです。人間誰でも年をとる、いつまでも清純アイドルでおられるはずはない。それでからを破ろうとしますが、今までのイメージと異なりますからファンは横を向きます。名子役といわれた人が消えていくのはこのせいです。百も承知で絹代はなりふりかまわず、汚れ役に挑戦しました。
翌24年、絹代はハリウッドに招かれ渡米します。猫も杓子(しゃくし)も海外に行く現在とはちがいます。あこがれのハワイ航路の時代です。ところが3ヶ月ほどで帰国した彼女に、ファンは仰天しました。まるでマリリンモンローのような厚化粧、サングラス姿で空港におり、イエーッと投げキッスまでしたのです。世間は怒りました。(続く)