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2014年2月5日織田 作之助 (五)

昭和15年(1940)刊行の作之助の『夫婦善哉』はヒットしますが、東京の文壇の大御所連中からは、
「思想がない。悪達者だが軽薄すぎる」「西鶴の模倣だ。これでは長続きしない」
と、こきおろされます。新人のくせに妙な反骨精神を振り回し、偽悪ぶる態度が偉い方たちの癇(かん)にさわったのでしょう。
なにをぬかすかと反発した作之助は、『二十歳』『青春の逆説』『わが町』『立志伝』『勧善懲悪』『驟雨』『木の都』と物すごいスピードで書きまくります。
しかし戦争が厳しくなり、『青春の逆説』は風俗紊乱(びんらん)で発禁処分、他の作品も内容不適切として掲載不許可を命じられ、せっかくの才能の芽生えを国家権力につみとられてしまいます。やむなく『西鶴新論』や『五代友厚』といった評論・伝記の分野に転じた矢先、同19年愛妻一枝が子宮ガンで死亡します。31歳の若さでした。

『夫婦善哉』に登場する法善寺横丁にあるぜんざい屋

 

作之助は泣いた。涙がかれはてるまで泣き伏した彼は呆然(ぼうぜん)自失し、食欲を失い、餓鬼のように痩せ細りながら本気で遺書を書きます。ところが幸いなことに戦争は案外早く終わりました。
「作ぼんははよからこの戦争はあかん。姉ちゃん、もう二、三年とはもたんで。大阪にいたら死ぬさかい、どこか田舎へ逃げとき。こないいうてました」
長姉竹中タツの言葉ですが、もっと早く白旗をあげたのです。
焼け野原でボケーッとしていた作之助を力づけたのが、やはり大阪出身の作家宇野浩二です。
「お前、なにしとる。小説が書けるんや。好きなだけ書ける。奥さんの供養になるぞ」
我にかえった作之助は、猛烈な勢いで『世相』『競馬』等を書き始めます。大阪日日新聞の『夜光虫』、京都日日新聞の『それでも私は行く』などの連載小説は大好評、ラジオドラマ、映画シナリオもてがけて多彩な才能を見せます。
かと思うと、フランスの実存主義哲学者J・P・サルトルをいち早く評価し、『可能性の文学』と題した質の高い評論を発表、アプレゲールと呼ばれた戦後の若い世代の絶大なる人気を得ました。太宰治に坂口安吾、それに作之助を加えて世間は、「戦後派の旗手」と呼びます。(続く)