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2014年2月19日森派の画家たち(一)

猿画では日本一といわれた森狙仙(そせん)は、円山応挙の援助で大坂に「森派」と呼ばれる絵師集団を結成し活躍しますが、狙仙の実兄森周峰もそのひとりです。
周峰は幼いころから絵の修業ひとすじできたため、全く文字が読めません。あるとき小さな絹地1枚に画題を書いた紙片を添えた注文がきます。漢字2文字ですが読めずに困っているところに、寺子屋から8つになる娘が帰宅します。

周峰の人物画

「なんて書いてある」
と尋ねると娘は、
「父ちゃん、こんな字読めへんの。せんとりよ」
と答えます。周峰
「この客はなに言うとる。いくらわしでもこんな小さい布に千羽も鳥が描けるもんか。まあ十分の一でしんぼうしてもらお」
と口をとんがらしながら、五日がかりで種類の異なる小鳥を97羽描いたところでいっぱいになりました。
「すまん。これ以上描かれへん」
と頭を下げられた依頼の客は、絶句しました。その絵のすばらしいこと、精密なこと。注文は「千鳥(ちどり)」だったのです。
周峰の作品は写実に徹した精密画で、髪の毛一本もゆるがせにしない正確さが自慢でした。弟の狙仙はそこが気に食わぬ。
「な、兄貴。きれいな絵やが動きがない」
と、けちをつけます。狙仙は太い線と色彩の濃淡で、動物の仕草や一瞬の動きを表現するのに、たけていました。周峰は弟の才能を高く評価していたので、
「そやなあ。お前の絵を半分混ぜたら、わしのもようなるやろ」
と答えます。
お前の絵を半分混ぜたら…は本気でした。この兄弟はおたがいに自分の息子を交換しています。周峰の実子徹山が狙仙の養子に、狙仙の実子雄山周峰の養子になったのです。
周峰狙仙より2年も長生きし、文政6年(1823)83歳という珍しい長寿を保って他界しました。墓も狙仙と同じく西福寺(北区兎我野町)にあり「森周峰墓」とのみ刻まれています。
周峰の実子で狙仙の養子になった森徹山は、安永4年(1775)生まれ。実父と養父に学んだのち、円山応挙の実子、円山応瑞の妻の妹と結婚し、応挙応瑞の指導も受け、天保3年(1832)から9年間、京都御所の御用絵師を勤めるほど、有名になりました。本当に周峰狙仙を合わせたような画風で、禁裏(きんり=皇居)のふすま絵やびょうぶ絵等も描いています。天保12年(1841)没。(続く)