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2014年2月19日三好 潤子(三)

30代に入って難病結核性カリエスと腹膜炎に襲われ、病床で喘(あえ)ぐ俳人三好潤子は、こんな句を詠んでいます。
「毛虫焼くお七の刑もさながらに」
「稲妻の刃よ疼くこの胸を切れ」
「のどに当て氷柱の剣で死を賜へ」
これらをマゾヒズムに近い自虐の句だと批評する人もいますが、
私はそうではない、どうすることもできぬ苦痛を、ナイーヴ(素朴)に詠んだものだと思います。

三好潤子

そんな彼女も、たまには薬が効いたのか、おだやかな日もあったのでしょう。
「許されて入浴我は水中花」
痩せおとろえた手足を思いきり伸ばしながら、目をつぶってゆったりと湯につかるひとときの憩いが、とてもよくでています。
40を過ぎると生きる時間があまり無いと考えたのか、潤子「生」「病」「命」「死」をテーマとします。
「地獄まで落ちし蟻まだ生きてゐる」
「限りある命を写す川蛍」
「死に場所をここへ決めたる曼珠沙華」
「涅槃(ねはん)通夜我も病臥の北枕」
潤子を知る人たちは、彼女の人柄や性格について、さまざまな感想をもらしています。陽気でわがまま、病気のせいか自己中心的で気まま。いや泣き虫弱虫だ、泣かれると慰めようがない。明るく少女のようにはしゃぐ、病気で苦しいのに心配かけまいと気を使いすぎる…等々です。まるで別人のようですが、そのどれもが本当でしょう。そうでなければこれほどの句は詠めるはずはありません。俳人富沢赤黄男(とみざわかきお)に、
「灯をともし潤子のやうな小さいランプ」
との句がありますが、本当にそんな女性だったと思われます。
下肢動脈栓塞症をおこし、もうだめだと言われた昭和58年(1983)10月、山口誓子らの中国訪問の旅に参加したいとだだをこね、誰がなんといっても聞かず、ついていきました。わずか10日ほどでしたが、中国ではびっくりするほど元気だったのに、帰国したときはものも言えず、コップもとり落とすほど力を失います。和歌山県立医大に入院、奇跡的に危篤状態をのりこえますが同60年2月、59歳で永眠しました。
「菊嫌ひ死なばその菊供へらる」
潤子の句にこんなのがあり、棺は白百合で埋められます。同64年、彼女の句はまとめられ、『曼珠沙華』と題して刊行されました。 (終わり)