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2014年2月19日三好 潤子(二)

潤子に俳句の手ほどきをした築港警察署の司法主任で俳人榎本冬一郎も、幼いころ不幸な境遇にありました。
母は父と別れ、冬一郎をおんぶして奈良の男と再婚しますが、この義父と冬一郎は折り合いが悪い。白い眼でにらむ冬一郎は義父に殴られ蹴られ、小学校の高学年になると家出をくり返します。
昭和11年(1934)大阪の製油会社の工員になった冬一郎は、猛勉強して巡査採用試験に合格、交番勤務のかたわら独学で俳句を作り、たまたま俳句雑誌に投稿した「派出所日記」山口誓子が異色の俳句だと激賞。主宰する俳誌「天狼」の同人に加えて指導、めきめき頭角(とうかく)を現しました。
冬一郎は境遇が似ている三好母娘を慰め励まし、天狼グループの同人たちを連れてきて、母娘の経営する小さな旅館で、何度も句会を開きます。母娘も冬一郎の人柄を慕い、とくに父の顔も知らぬ潤子は、冬一郎に父親のような気持ちを抱き、甘えるうちに俳句の手ほどきを受けはじめました。

昭和27年(1952)大手前会館(中央区)で天狼五周年大会が開かれます。冬一郎に頼まれて受付けを手伝っていた潤子に、誓子
「キミが冬一郎君が自慢していた潤子君か」
と声をかけました。
誓子高浜虚子の弟子で東京帝国大学出身の俳人ですが、「ホトトギス」の写生尊重の句風を批判し、新興俳句運動に入った時期もあり、積極的に都会の無機的な題材を選び、虚無に近い内面表白の句をめざしていました。西東三鬼秋元不死男ら前衛俳句の旗手たちも、天狼の同人です。
戦時中誓子は胸部疾患で、長い間闘病生活を続けたことがあります。生涯悪性の結核にとりつかれた潤子の苦しみを誰よりも理解し、率直に自分を表現する句を詠めと指導します。そのせいか、潤子の句には、「狂」「魔」「毒」「腐」といった一般の女性が嫌うことばが、目立つようになります。
「我を射し我の毒にて蜂死せり」
「悪女かも知ればいちごの紅潰す」
「五臓六腑腐れゐて吹くしゃぼん玉」
医師にとても30歳までは生きられまい、と言われた潤子は、かろうじて30代に入りますが、悪性の脊椎(せきつい)カリエスにかかり、結核性腹膜炎まで併発、まるで焼けた鉄板の上を裸で転げ回るような激痛に襲われる毎日となりました。(続く)