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2014年2月19日三好 潤子(一)

私は「みなとQ」の俳句・短歌欄を、いつも楽しみにしています。ことに俳句は世界でも例のない短詩で、単に感性だけではなく、作者が人生をどう生きてきたかが17文字に凝縮され、それが読者の心にしみわたるすばらしい文芸です。

三好潤子は病魔にとりつかれ、とても30代までは生きられないと医師に診断されながら、誰もが驚嘆する秀句を詠んだ俳人です。
彼女は大正15年(1926)港区に生まれました。本名は三好みどり。母が正妻でなかったため父の顔もあまり覚えておらず、母娘ふたり寄り添ってひっそりと暮らし、小さい旅館を経営して生活します。

三好潤子

幼いころは明るいかわいらしい少女で、誰からも好かれていたのですが、生涯とりついた結核に感染し苦しみます。それも腎結核や中耳結核という難病で、戦時色が濃くなる当時の医学では、全快の見込みはないとつき放されました。それでも健気にふるまう娘を見て、母は涙をぬぐう毎日を過ごします。
昭和18年(1943)大阪女学院を卒業した潤子は、体を動かさないでもできる技術を身につけようと、ローケツ染めの図案を学びます。師匠は有名な芹沢銈介です。民衆美術に関心をもち、独特の型絵染めで民芸運動に貢献した方です。
その銈介
「キミは大変な才能がある。きっと染色家として世に出られるぞ」
と、たいこ判を押しました。
そんな潤子の人生が大きく変わったのは、同22年、5人の強盗が旅館に押し入ったときからです。敗戦後の大混乱で物資どころか食料も乏しく、餓えをしのぐためには盗むよりほかはない悲しい時代で、大阪の治安は乱れきっていました。腹ペコの5人組は、震えている母親と病床の娘を見て気を許し、旅館なら食う物ぐらいはあるやろ、はよ作れと命じます。母親はなけなしの米やミソをかき集め、大切なお客のため隠しておいた酒まで出してもてなします。男たちが大喜びで飲んだり食べたりしている間に、病人で動けないと思わせていた潤子はこっそり抜けだし、交番へかけこみました。
この機転で強盗どもは逮捕され、母親と潤子は築港警察署から表彰されますが、このとき賞状を渡した司法主任が、俳人山口誓子の弟子、榎本冬一郎だったのです。
冬一郎は明治40年(1907)和歌山県田辺の生まれ。父は不明。母は幼い彼をおんぶして、奈良の男に身を寄せるという境遇に育ちます。(続く)