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2014年2月19日人見 絹枝(五)

昭和3年(1928)7月、アムステルダムの第9回オリンピックにたった一人で参加した絹枝は、100mで予選失格。雪辱を期した800mでも1周したところで5位に落ちます。「負ければ生きて日本に帰らない」と誓った絹枝です。
もう作戦もへちまもない。ただ前の人を突きとばすつもりでメチャクチャ走った彼女は、ラストの直線で優勝候補のゲンツェル(スウェーデン)を抜き、2位に浮上、トップのラートケ(ドイツ)の足にタックルして、ひき倒してやろうと激走します。ラートケの背中がぐんぐん大きくなる。ああ、もうちょっと…と思ったとたん、2人は火の玉となってゴールに転がっていました。

1位 ラートケ 2分16秒8    2位 人見絹枝 2分17秒4

ラートケとの死闘

ともに世界新記録ですが、 2人とも意識を失い、医務室にかつぎこまれます。凄惨なレースに大会役員たちは顔色を失い、以後女子800は禁止、解禁になったのは第17回大会からでした。銀メダルでしたが、オリンピックのポールに日の丸があがったのは、男子を含めてもこれが最初です。
男子も発憤、30分後に織田幹雄が三段跳びで日本初の金メダル。6日後に鶴田義行が200m平泳ぎで金メダル。優勝直後に、
「人見さんのおかげだ。あの感動で勝手に手足が動いた。バンザイ、バンザーイ」
と絶叫した義行の言葉は、絹枝の力走がどれほどすばらしかったかを物語っています。
「自分のためにも、国家のためにも、責任を果たして参りました」
と帰国してこう語った絹枝を待ちうけていたのは、マスコミ特有の好奇心です。当時の日本女性の平均身長は148cm、絹枝は169cmの長身です。それに長年のトレーニングでむだな脂肪は削り落とされ、筋肉のかたまり、まるで彫刻のようでした。
「あなた、本当に女ですか」
品性下劣な一部の記者に、こう聞かれたこともあります。また彼女は毎日新聞入社後、二階堂塾で同級だった蔦原(つたはら)マサと1年後輩の藤村テフの3人で、共同生活をしています。マサは淀之水女学校の体操教師でしたので、炊事・洗濯等の世話はテフが焼きますが、このテフとレズの関係にあるとのデマが広がります。さすがの絹枝もこれには傷つきました。有名な「私は珍獣のように眺められている」は、このときの言葉です。(続く)