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2014年2月19日人見 絹枝(一)

私は平成17年6月、弁天女性会の依頼で、港区民センターで「人見絹枝」について講演(本誌同年7月号参照)、多くの方々が熱心に聴講され嬉しかった思い出があります。その後、聴けなかったのでぜひこの連載に入れてください、との要望がありました。絹枝は私の尊敬する人物のひとりですから、喜んでしばらくお話することにします。

女学生の頃の人見絹枝

最近の日本女性の運動能力の高さにはびっくりします。男たちが顔色を失うほど、国際大会でも大活躍されています。そのなかでもオリンピックの花形女子マラソンで、見事金メダルに輝いた高橋尚子さん、野口みずきさんの笑顔は、実に感動的でしたね。あの健気な、楚々(そそ)とした走りぶりは、今でもまぶたに焼きついています。

人見絹枝もそんな女性です。昭和3年(1928)第9回オリンピックに21歳で出場し、8百mで銀メダルを獲得、男女合わせて五輪で初めてポールに日の丸をあげました。それまで五輪には女性の出場が認められず、この大会が世界最初の男女共同参加になるのですが、絹枝は日本ではたったひとりの女子選手として出場、銀メダルに輝きます。当時日本では、女子のスポーツ選手など「珍獣のように眺められ(彼女の言葉)」ていました。そんな女性に対する偏見の満ちた社会にあって信念を貫き、数々の記録をたてながら、たった24年間の短い人生を疾風のように駆けぬけて消えた絹枝の生きざまには、なんともいえない悲しい気持ちになってきます。

絹枝は明治40年(1907)岡山県の福浜村に生まれました。父は人見猪作、母は岩枝、その次女です。母は自分の名前が嫌いで、娘には女の子らしい優しい名がよいと考え、絹枝にしたと伝えます。父の猪作は農業ですが村の有力者で、社会事業や福祉方面のボランティア活動の先頭に立ち、なかなか信望がありました。

ところが母の願いとはうらはらに、絹枝は負けず嫌いで活発なため、「人見のバッサイ(方言でお転婆のこと)」と呼ばれます。男の子とけんかしても泣くのは男の子。体も大きく運動能力に恵まれ、しかも抜群に勉強ができて小学校6年間、いつも級長でした。当時はほとんど小学校だけですが、絹枝の両親は教育に理解があり、この成績に感心した先生の勧めもあって、名門の岡山高等女学校へ進学させます。この女学校は勉強だけではなく、スポーツでも有名校でした。(続く)

人見 絹枝(二)

大正9年(1920)絹枝が進学した岡山高等女学校は、勉強だけではなくスポーツも盛んで、とくにテニスは中国地方でもトップレベルにありました。
「お花とお茶をやりなさい」
と命じる母岩枝を泣き落としてラケットを買ってもらった絹枝は、いろいろな大会に次々に優勝し、「オカジョのヒトミ」の名はひびきわたります。なみはずれた長身と足の速さとジャンプ力、彼女がダブルスの前衛にいれば後衛はいらぬと言われるほどでした。

恩師 二階堂トクヨ

大正12年4年生のとき、陸上競技部の顧問の先生が、
「部員がたらん。臨時部員になって、大会に出てくれないか」
と頼みます。気軽にひきうけた絹枝は走幅跳びに出場、いきなり4m67を跳んで日本新記録を作ります。
校長の和気先生はスポーツが大好きでした。顧問からこの話を知らされた校長は、担任と連れだって
「東京の二階堂女塾に進学させなさい」
と両親の説得に訪れます。この塾は、二階堂トクヨが代々木に開いたばかりの女子体育塾です。トクヨは東京女子高等師範学校を卒業後、文部省留学生として英国のキングスフィールド体育専門学校に入学。運動生理学を研究し、帰国後は日本女性の体力向上をめざして、初めて体育塾を開いた先駆者です。女子スポーツに全く関心のなかった時代でしたから、全国の女学校に運動能力の高い女生徒の推薦を依頼しており、それが和気校長の目にとまっていたのです。
「うちの絹枝は女子師範学校にやります」
両親はあわてて断りますが、肝心の絹枝が大乗気、またもや親を泣き落として上京します。
「絹ちゃんにはびっくりしました。お昼になっておソバ屋さんに連れて行って、好きなだけ、お食べと言ったら、いきなり、もりそば7枚もたいらげて、ああおいしと言いました。こらモノがちがうと思いました」
後にトクヨはこう語っています。そう言えば高橋尚子さんも大食漢だそうですね。人間、しっかり食べないと大物にはなれませんよ。

翌13年、絹枝は三段跳びで10m33の世界新記録を出します。今なら大騒ぎですが、なんや、新記録いうてもたった1cmやないかと、世間は話題にもしませんでした。それまではアメリカのスタインが10m32。陸上競技では1cmや0.1 秒がどんなに価値があるか、誰も知らぬ時代でした。(続く)

人見 絹枝(三)

大正15年(1926)二階堂女塾(現・日本女子体育大学)を卒業した絹枝は、大阪毎日新聞社に運動部記者として入社します。毎日は日本では初めて女子スポーツ欄を設けた新聞社です。
「人見くん、いいアイデアはないかね」
運動部長に聞かれた絹枝は、少し考えていましたが、これ、お役に立ちませんかと分厚いノートを出します。パラパラめくって部長は仰天しました。絹枝が今まで取り組んできた練習方法・結果や、記録から栄養の摂取まで、細かく記されていたのです。

人見絹枝

「こら新聞連載じゃもったいない。本にしよう」
となって出版したのが、絹枝の最初の著作『最新女子陸上競技方法』です。この中で彼女は、

「日本の社会は女子の運動機能をむしりとっています。だから日本女性の身体の貧弱なこと。ちょっと押すとへこんでしまいそうな、なよなよとした女を嫁にしたい男たちは、すぐにこの国から出ていってください」
「世間のうわさほどうるさいものはありません。しかし、いちいち気にしていては、大きな仕事はできない。大洋を泳ぐ鯨は、どんなものにぶつかっても、方向を変えぬそうです」
といった内容を書いています。
この年9月、スウェーデンのエーテボリで開かれた第2回万国女子オリンピック大会(当時オリンピッ は男子のみで、4年前に女子専用の大会が生まれる)に、絹枝はたったひとりで参加します。朝鮮からハルピンへ、シベリア鉄道でモスクワを経てヨーロッパに入る旅程です。外国語のできない彼女に通訳もマネジャーもいない。切符の買い方、食事の注文、宿の契約、何一つわかりません。さすがの絹枝も気苦労と孤独感で体調を崩しますが、それでも走幅跳び5m50の世界新記録で優勝、立幅跳びも優勝、円盤投2位、百ヤード走3位、総合得点15で、日本は世界第5位にランクされます。この大会は参加国出場選手数150、第1位のイギリスは25人で50点、第4位チェコは12人で19点です。日本は1人で15点ですから、大会委員会はびっくりして、絹枝に最優秀選手賞を贈りました。
「日本の女はけばけばしいキモノにゲタをはき、発育不良の小さな体でチョロチョロするものと思っていた。ところがヒトミは顔も塗らずカンザシもつけず、大股で歩いていた」
外国人記者はこんな記事を書いています。(続く)

人見 絹枝(四)

大正15年(1926)9月、スウェーデンの「第2回万国女子オリンピック大会」に、たった一人で参加した毎日新聞記者の絹枝は、得点15点をあげ、日本を世界第5位にします。

毎日新聞が活躍を大きく報道したため、帰国後の彼女はヤマトナデシコだ、帝国日本の力を世界に示した女傑だと世間はもちあげ、講演にひっぱりだこ、3ヶ月に200回もこなしたと言われます。さらに絹枝は競技よりも、「シベリア横断記」と題した連載記事に力をいれます。これは女性がひとりで外国旅行をするためのガイドブックみたいな内容で、キップや宿のとりかたをはじめ、風俗習慣の違いやこまごました旅の心得をつづり、女性の皆さん、海外へ出ましょう、もののみかたが変わりますよと呼びかけています。

力走する人見絹枝

昭和3年(1928)7月、21歳の枝はアムステルダムの第9回オリンピックに、これまたたった一人で出場します。女性が男性と共同参加できる初めてのオリンピックです。しかし得意の種目走り幅跳がない。しかたなく100mと、練習もしたことのない800mにエントリーしますが、やはり100mは花形、世界のエースたちが出場し、彼女は準決勝で予選落ちとなりました。新聞社勤務や講演・原稿で、練習時間がたりなかったこともありますが、スウェーデンのときとちがって、今度は背中に日の丸がはりついている。800mに勝たねば生きて帰れない…と本気で思いつめます。

8月2日、競技場へ向かう途中で、いつもは、無口な織田幹雄(三段跳びの名手)が蒼ざめた絹枝の横顔を見て、
「なあ、誰も日の丸をあげなんだら、お手々つないでそこの川にとびこもうか」
と冗談を言いました。緊張をやわらげようとしたつもりですが、下手な冗談ですね。かえって皆は口をへの字に結びます。ますますプレッシャーのかかった絹枝の昼食は、たったのメロンひときれでした。

彼女の立てた作戦はこうです。
「まずスタミナを無視して全力でとびだし、トップに立つ。相手はあわててペースを崩し、誰かが私を抜くだろう。私はその人の背中にかじりつくつもりで走り、ラストで追い越す」

ところがこの戦法は、なんの役にもたちませんでした。スタートダッシュが予想もしない速さだったのです。ドイツのラートケとスウェーデンのゲンツェルがつむじ風のようにとびだし、絹枝は5位に落ちました。(続く)

人見 絹枝(五)

昭和3年(1928)7月、アムステルダムの第9回オリンピックにたった一人で参加した絹枝は、100mで予選失格。雪辱を期した800mでも1周したところで5位に落ちます。「負ければ生きて日本に帰らない」と誓った絹枝です。
もう作戦もへちまもない。ただ前の人を突きとばすつもりでメチャクチャ走った彼女は、ラストの直線で優勝候補のゲンツェル(スウェーデン)を抜き、2位に浮上、トップのラートケ(ドイツ)の足にタックルして、ひき倒してやろうと激走します。ラートケの背中がぐんぐん大きくなる。ああ、もうちょっと…と思ったとたん、2人は火の玉となってゴールに転がっていました。

1位 ラートケ 2分16秒8    2位 人見絹枝 2分17秒4

ラートケとの死闘

ともに世界新記録ですが、 2人とも意識を失い、医務室にかつぎこまれます。凄惨なレースに大会役員たちは顔色を失い、以後女子800は禁止、解禁になったのは第17回大会からでした。銀メダルでしたが、オリンピックのポールに日の丸があがったのは、男子を含めてもこれが最初です。
男子も発憤、30分後に織田幹雄が三段跳びで日本初の金メダル。6日後に鶴田義行が200m平泳ぎで金メダル。優勝直後に、
「人見さんのおかげだ。あの感動で勝手に手足が動いた。バンザイ、バンザーイ」
と絶叫した義行の言葉は、絹枝の力走がどれほどすばらしかったかを物語っています。
「自分のためにも、国家のためにも、責任を果たして参りました」
と帰国してこう語った絹枝を待ちうけていたのは、マスコミ特有の好奇心です。当時の日本女性の平均身長は148cm、絹枝は169cmの長身です。それに長年のトレーニングでむだな脂肪は削り落とされ、筋肉のかたまり、まるで彫刻のようでした。
「あなた、本当に女ですか」
品性下劣な一部の記者に、こう聞かれたこともあります。また彼女は毎日新聞入社後、二階堂塾で同級だった蔦原(つたはら)マサと1年後輩の藤村テフの3人で、共同生活をしています。マサは淀之水女学校の体操教師でしたので、炊事・洗濯等の世話はテフが焼きますが、このテフとレズの関係にあるとのデマが広がります。さすがの絹枝もこれには傷つきました。有名な「私は珍獣のように眺められている」は、このときの言葉です。(続く)

人見 絹枝(六)

昭和4年(1929)200mに24秒7、三種競技に217点と、ともに世界新記録を出した絹枝は、翌5年9月、チェコのプラハで行われた第3回万国女子大会に、村岡美枝・本城ハツ・渡辺すみ子・中西みち・浜崎千代の5名をつれ、監督兼コーチ兼選手として参加します。5名は日本女子体育専門学校(旧二階堂塾)の後輩で、記録は世界レベルには達していませんが、日本女子スポーツ界向上のため、無理してつれていったのです。
「狭い国内ばかり見ないでください。世界は広い。海外に出なければ、物事の本当の姿は見えてきません」
これが絹枝の信念でした。
この大会で日本の総合得点は13、世界第4位の成績を収めますが、リレーの1点を除くと全部絹枝ひとりで得点したものです。新聞に痩せこけた絹枝が、丸々太った5人の選手を人力車に乗せ、ひっぱっている諷刺イラストが出ています。

プラハのイラスト

大会が終わると絹枝たちヨーロッパを廻り、各国の陸上競技大会に参加します。渡欧費用の大半は借金で、返済のため出場手当てで稼いで支払わねばなりませんでした。もちろんどの国も絹枝が出場しなければ、承知しない。7種目も出た大会もあります。風邪で熱が高くても生理がきても、注射と薬で押さえて参加します。ベルギーで52対48で初勝利を得たときも、彼女は39度の熱があったと伝えます。

11月に帰国した絹枝は、カツオ節削り器でとことん削りとられたカツオ節の残骸のようでした。けれども休息は許されない。借金返済のため企業・自治体・女学校等の依頼で、講演をくり返します。薬、注射器、吸入装置持参でした。

毎日新聞にこんな記事があります。
「この日絹枝嬢は三田体育館で講演。午後は某小学校創立記念祝賀会に出席。ユニフォーム姿になり、模範演技を披露した。夕方は中央郵便局の研修講師を務め、スポーツは根性に非ず、科学的トレーニングが必要と力説、夜の慰労会は欠席し大阪放送局(JOBK)出演のため、夜行列車にとび乗った…」

ここまで過密なスケジュールをこなした理由は、なんだったのでしょう。もちろん借金の返済もあったでしょうが、日本女子体育の向上、男に負けぬ女の生きかたを、身をもって実証したかったからだと思います。しかし、それが死へのラストスパートになりました。(続く)

人見 絹枝(七)

昭和6年(1931)4月、絹枝は肋膜炎の診断で阪大病院に入院します。初め彼女はタカをくくっていました。ベルギーで2度と走るまいと誓った800mを懇望されたとき、今とよく似た症状がありましたが、注射を打って出場、かえって良くなった経験があったからです。

しかし今度はそうはいかぬ。5月の末にいったん小康をとりも しますが、乾酪(かんらく)変性肺炎(肺の組織がチーズのように凝固する病気)を併発、7月29日から呼吸困難となり、8月2日午後0時25分永眠しました。24歳の若さです。ふしぎなことにこの日は、オリンピック800mでラートケと死闘を演じた同じ日でした。無理解と偏見に満ちた女子スポーツ界を、満身創痍(そうい)になりながら走り抜けたあまりにも痛ましい最期です。

人見絹枝

棺(ひつぎ)には生前愛玩していた犬張子(いぬはりこ)と、奈良人形や御所人形など若い娘さん好みの品々が詰められ、薄化粧した表情はかわいらしく、誰もが涙をこぼします。
「もし一生スポーツをすることを許し、先生のおメガネにかなう方がおられたら、ぜひ紹介してください」
これは、毎日新聞運動部長でスポーツ医学の権威、木下東作博士にもらした絹枝の言葉です。気丈夫な彼女も東作の前では甘えるように、よく愚痴をこぼしました。あるとき、
「先生、また女ですかとからかわれました」
とベソをかいたとき、東作は、
「じゃあ絹枝くん、結婚しなさいよ。キミと争ったラートケはね、あのとき2人のお子さんのママだったよ」
と話します「もし一生スポーツを…」はそのとき絹枝が答えた返事です。
「私も子供を産んでから、もう一度オリンピックに出たい。ママ、しっかり…と応援してもらいたい」
ある雑誌のインタビューで彼女はこうも語っていますが、その夢は実現しませんでした。

生まれ故郷の岡山市の「岡山県営競技場」に、絹枝の銅像があります。昭和37年(1962)の国体開催記念に造立されたもので、両手を高くあげてまさにゴールのテープを切ろうとする勇姿を型どっています。

またチェコのプラハにある「オルシャン国立墓地」のなかにも、絹枝の早すぎる死を悲しんで、記念碑が設けられているそうです。(終わり)