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2014年2月19日人見 絹枝(四)

大正15年(1926)9月、スウェーデンの「第2回万国女子オリンピック大会」に、たった一人で参加した毎日新聞記者の絹枝は、得点15点をあげ、日本を世界第5位にします。

毎日新聞が活躍を大きく報道したため、帰国後の彼女はヤマトナデシコだ、帝国日本の力を世界に示した女傑だと世間はもちあげ、講演にひっぱりだこ、3ヶ月に200回もこなしたと言われます。さらに絹枝は競技よりも、「シベリア横断記」と題した連載記事に力をいれます。これは女性がひとりで外国旅行をするためのガイドブックみたいな内容で、キップや宿のとりかたをはじめ、風俗習慣の違いやこまごました旅の心得をつづり、女性の皆さん、海外へ出ましょう、もののみかたが変わりますよと呼びかけています。

力走する人見絹枝

昭和3年(1928)7月、21歳の枝はアムステルダムの第9回オリンピックに、これまたたった一人で出場します。女性が男性と共同参加できる初めてのオリンピックです。しかし得意の種目走り幅跳がない。しかたなく100mと、練習もしたことのない800mにエントリーしますが、やはり100mは花形、世界のエースたちが出場し、彼女は準決勝で予選落ちとなりました。新聞社勤務や講演・原稿で、練習時間がたりなかったこともありますが、スウェーデンのときとちがって、今度は背中に日の丸がはりついている。800mに勝たねば生きて帰れない…と本気で思いつめます。

8月2日、競技場へ向かう途中で、いつもは、無口な織田幹雄(三段跳びの名手)が蒼ざめた絹枝の横顔を見て、
「なあ、誰も日の丸をあげなんだら、お手々つないでそこの川にとびこもうか」
と冗談を言いました。緊張をやわらげようとしたつもりですが、下手な冗談ですね。かえって皆は口をへの字に結びます。ますますプレッシャーのかかった絹枝の昼食は、たったのメロンひときれでした。

彼女の立てた作戦はこうです。
「まずスタミナを無視して全力でとびだし、トップに立つ。相手はあわててペースを崩し、誰かが私を抜くだろう。私はその人の背中にかじりつくつもりで走り、ラストで追い越す」

ところがこの戦法は、なんの役にもたちませんでした。スタートダッシュが予想もしない速さだったのです。ドイツのラートケとスウェーデンのゲンツェルがつむじ風のようにとびだし、絹枝は5位に落ちました。(続く)