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2014年2月19日人見 絹枝(二)

大正9年(1920)絹枝が進学した岡山高等女学校は、勉強だけではなくスポーツも盛んで、とくにテニスは中国地方でもトップレベルにありました。
「お花とお茶をやりなさい」
と命じる母岩枝を泣き落としてラケットを買ってもらった絹枝は、いろいろな大会に次々に優勝し、「オカジョのヒトミ」の名はひびきわたります。なみはずれた長身と足の速さとジャンプ力、彼女がダブルスの前衛にいれば後衛はいらぬと言われるほどでした。

恩師 二階堂トクヨ

大正12年4年生のとき、陸上競技部の顧問の先生が、
「部員がたらん。臨時部員になって、大会に出てくれないか」
と頼みます。気軽にひきうけた絹枝は走幅跳びに出場、いきなり4m67を跳んで日本新記録を作ります。
校長の和気先生はスポーツが大好きでした。顧問からこの話を知らされた校長は、担任と連れだって
「東京の二階堂女塾に進学させなさい」
と両親の説得に訪れます。この塾は、二階堂トクヨが代々木に開いたばかりの女子体育塾です。トクヨは東京女子高等師範学校を卒業後、文部省留学生として英国のキングスフィールド体育専門学校に入学。運動生理学を研究し、帰国後は日本女性の体力向上をめざして、初めて体育塾を開いた先駆者です。女子スポーツに全く関心のなかった時代でしたから、全国の女学校に運動能力の高い女生徒の推薦を依頼しており、それが和気校長の目にとまっていたのです。
「うちの絹枝は女子師範学校にやります」
両親はあわてて断りますが、肝心の絹枝が大乗気、またもや親を泣き落として上京します。
「絹ちゃんにはびっくりしました。お昼になっておソバ屋さんに連れて行って、好きなだけ、お食べと言ったら、いきなり、もりそば7枚もたいらげて、ああおいしと言いました。こらモノがちがうと思いました」
後にトクヨはこう語っています。そう言えば高橋尚子さんも大食漢だそうですね。人間、しっかり食べないと大物にはなれませんよ。

翌13年、絹枝は三段跳びで10m33の世界新記録を出します。今なら大騒ぎですが、なんや、新記録いうてもたった1cmやないかと、世間は話題にもしませんでした。それまではアメリカのスタインが10m32。陸上競技では1cmや0.1 秒がどんなに価値があるか、誰も知らぬ時代でした。(続く)