明治6年(1873)、大阪府は木橋だった心斎橋を、1万9千円もの大金を投じて、ドイツから輸入した弓形の鉄製トラス(接点がすべて回転自在の結合をもつ骨組み構造)橋に改めます。当時珍しい鉄橋でしたから錦絵にもなり、心斎橋の名は全国に広がりました。
この橋は現在鶴見緑地(鶴見区緑地公園)に移り、「緑地西橋」と呼ばれて保存されていますから、おついでのおり高覧されるようお勧めします。
明治41年(1908)地元の商店街の主人たちは、この鉄橋心斎橋の幅が狭く積荷の搬送に不便だったので、新しく 架けかえることを決議します。先代に負けない話のタネになる名橋にしなければ… と知恵をしぼったあげく、超 デラックスな西洋風デザインをほどこした石橋に決めるのですが、この前代未聞のアイデアに関心する人は多くても、おいそれとひき受ける業者がおりません。
あれこれ物色して、やっと偏屈だが義侠心の厚い親方と言われた南区高岸町(現浪速区)の親方小西荘次郎に白羽の矢を立て、
「あんたしかいない。町のためや。ひと肌ぬいでくれへんか。ゼニは集めるさかい」
と世話人たちは懇願します。
あきまへんと手を振ってことわる荘次郎も、何時間もくどかれるうちにつぶっていた眼をかっと開き、仁王のような形相になって、
「わいも男や。そない言うんなら、やったろやないか」
と叫んでしまいます。
何日も何日も現場に座り込んで工夫をこらしていた男荘次郎は、やっと「長さ120尺、幅は4間、片側に鉄製のガス燈4基ずつ置き、中央の橋脚から西側の橋詰にアーチを架け、全部花崗(かこう)岩にして彫刻を施す」という壮大なプランを作成します。
工事元の大阪府は用心して大手建設業者たちにも声をかけ、工期を4期に分け各期ごとに入札させる方法をとりますが、もうけなど初めから眼中にない荘次郎の廉価な見積もりと抜群のアイデアに太刀打ちできず、彼に全工事を落札され、かげぐちをたたくのがせいいっぱいでした。
荘次郎はよき理解者で、金主でもあった松島(西区)の富商高松屋主人を訪ね、
「な、後世に残る仕事をしたいんや。一世一代の勝負に出る。カネを貸しておくんなはれ。
恩にきます。このとおり」
と土下座しました。(続く)