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2014年2月20日心斎橋の人たち(二)

元和2年(1616)徳川幕府に頼まれ、大坂冬・夏の陣で焼け野原になった市中の復興にとりかかった岡田心斎は、まず長堀川を開削し、荒廃した瓦礫(がれき)を舟で運ばせ、きれいに整理します。

次に受け取った資金で沿岸に商店街を起こし、「美濃屋」の看板をあげて地域の活性化を図るビジネスにとりくみました。美濃屋の商法は地方の藩から委託を受けた諸国の物産を大坂に集め、販売することです。世の中が平穏になると、人々はより豊かな生活を求めます。自給自足のシステムを、積極的な交易経済に改める。この変化を心斎は先取りしました。やがて諸藩は美濃屋の商法を真似て、直接大坂に店を構えて売りさばきますが、これが大坂独特の蔵屋敷の起こりです。

浪華長堀心斎橋記

心斎は富を独占しませんでした。地域発展を第一とし、道路・下水道等の公共土木工事に私費を投入。火災や病気で家産を失った人たちの世話をしますから、誰からも慕われます。商都大阪のシンボル心斎橋筋商店街は、心斎が元祖です。

寛永16年(1639)心斎は64歳で病没しました。法名は光誉心斎。葬儀は一心寺(天王寺区逢阪2丁目)で行われたと古記録にあるので、墓もあろうかと探しに行きましたが、見つかりませんでした。もっとも同寺の墓地は広いので、見落していたら教えてください。

心斎の娘喜免(きめ)が、京の商人佐々木久右衛門をむこ養子に迎え、美濃屋を継ぎました。この夫婦の娘都留(つる)は、大坂商人田村甚右衛門に嫁ぎ、その子供の純之(すみすき)が美濃屋三代主人四郎兵衛となり、美濃屋をますます発展させています。

前号で紹介した牧村史陽氏発見の「心斎系譜」「浪華長堀心斎橋記」は、この四郎兵衛が元禄16年(1703)に手書きした文章で、心斎の死後64年に当たります。実物は美しい筆跡の漢文で、誇張した賞賛の言葉はなく、淡々と事実のみ叙述していますが、曽祖父に対する尊敬の気持ちが行間にあふれる名文で、自分のことを自若堂心斎と署名しています。

残念ですが絵図がないので、心斎が架けた心斎橋が、どんな橋だったかは分かりません。橋長18間、幅2間半、杉と松を使った木橋だと伝えられます。

心斎の死後は町橋(利用する地域の人たちが維持し、補修費用を負担・管理する橋)になり、江戸末期までの2百数十年間に、10回ほど改修されています。料金と、沿岸の開発権をすべて心斎に与えました。彼はこれを地域の発展に使います。(続く)