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2014年2月20日心斎橋の人たち(一)

「クリスタ長堀」のオープン以来、心斎橋筋の文化史が見直されています。 心斎橋を架けた人については、たいていの本に、 江戸時代の初期に、幕府に頼まれた伏見の町人伊丹屋平右衛門、池田屋次郎兵衛、美濃屋(岡田)新三らは、道頓堀川の開削に当たるが、とくに功労の大きかった新三(号は心斎)は、開発地の一部を拝領し屋敷を設け、家の前の長堀川に小さな橋を私費で架けた。世間はこれを心斎橋と呼び、大坂繁栄の象徴となる」と記されています。しかしこれは、郷土史家の牧村史陽氏(故人)が、昭和32年(1957)岡田心斎の子孫羽田氏の所在をつきとめ、同家秘蔵の「浪華長堀心斎橋記」「心斎系譜」(ともに元禄16年〔1703〕記述)を発見し、『史陽選集』に発表してからで、あとの方たちはこれをなぞって解説しているのにすぎません。

浪華長堀心斎橋記

それまでは
(1)島之内の医師大塚心斎(実在せず)が私費で架けた。
(2)心斎は人名ではない。新羅(しらぎ)町がなまったものだ、
などの説が横行していたので、牧村氏の功績は大きいと思います。

「心斎系譜」によると、心斎の祖父は氏家志摩守といい、織田信長に従って元亀2年(1571)伊勢長島の一揆(いっき)を鎮圧に行って戦死。子供の四郎兵衛は武士社会を嫌い、伏見に移って商人となります。新三(心斎)はこの四郎兵衛の息子で、天正3年(1575)の生まれです。

新三は地域開発に独特の才能がありました。幕府はそこに目をつけ、元和2年(1616)大坂落城で荒廃していた市中の復興を命じます。新三は仲間の伊丹屋平右衛門、池田屋次郎兵衛、三栖清兵衛らと、長堀川の開削にとり組みます。6年後工事は完了、
「長堀川上下二十七間 横幅七十五間 川幅二十五間を掘立テ 両側ニ町屋ヲ作ル 以来コノ地ニ住シ橋架ケテ名ヅク」(原文は漢文)
と記されています。

大坂冬・夏の陣に心斎は徳川方に味方し、兵糧や武器の調達・搬送に尽力しました。そのため家産の大半を失い、生活に困っていたのを二代将軍徳川秀忠が知り、徳川方を援助したのに町人だからとなんの恩賞も与えないのはけしからぬと、長堀川を往来す 船の料金と、沿岸の開発権をすべて心斎に与えました。彼はこれを地域の発展に使います。(続く)