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2014年2月20日淀屋の人たち(六)

幕府に全資産を没収され追放処分を受けた豪商「淀屋」の五代主人広当は、山城国八幡(京都府八幡市)に移りますが、享保2年(1717)31歳で死亡、ほどなく妻のあづまも神経を病み、ウツ状態であとを追います。

ひとり残った娘の五百(いお)を気の毒がった地元の人たちは、奉行所の与力四方田重之丞(よもだしげのすけ)の息子孫七と結婚させます。ところがお堅いはずの役人の子のくせにワル、正業にはつかず酒と賭博にふけり、おまけに色事に手が早い。泣いてすがる五百に殴る蹴るの乱暴を働き、わずかな財産を使いはたすとさっさと雲隠れしてしまったのです。

明治18年の淀屋橋

生きる望みを失った五百は、近くの松林で首を吊ろうとしますが、たまたま通りかかった浪人の大野左門に助けられます。同情した左門はがらあきになった五百の家で寺子屋を開き、近所の子どもたちに読み書きを教えてかろうじて生計を支え、五百も炊事・洗濯など左門の身の回りの世話を焼くうちに親しくなり、二人は貧しいが幸せに暮らしはじめました。

いっぽう孫七は無頼仲間と悪事を働き続けますがこの話を知り、ねたましくなって仲間を誘い仕返しにきます。ある夜、珍しく左門が酒を飲んで熟睡したのを見定めて押し込み、左門を斬殺、正座して合掌しながらさしのべる五百の首も打ち落として立去ります。この時代は女敵討ち(めがたきうち)といって、夫のある女性が他の男と通じた場合は、二人並べて殺してもおとがめなしが常識でした。妻のある夫が不義をしても「男の甲斐性(かいしょう)だ」と不問にされますから、本当にひどい時代ですね。

ともあれ大坂が商都として発展する礎(いしずえ)を築いた豪商淀屋の末路は、こんな哀れな物語で幕が引かれています。

最後に「淀屋橋」にふれておきます。確実な資料はありませんが初代淀屋橋は、淀屋の二代主人淀屋个庵(こあん)が架けた木橋だとされます。何度も架け替えられたと思いますが、江戸時代後半の淀屋橋は橋長63・6m、幅3・9m、明治初年(同18年洪水で流失)のものは橋長73・4m、幅6mしかありませんでした。

現在の淀屋橋は昭和10年(1935)の竣工で、多数の応募の中から一等当選した大谷龍雄「南欧中世紀風橋」が、設計基本になっています。賞金は金千円也でした。(終わり)