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2014年2月20日淀屋の人たち(一)

大阪が日本を代表する商都として発展したきっかけは、「淀屋橋」を架けた「淀屋」の人たちの才覚(商いの機転)にあります。

慶長年間の中期(1608年頃)山城国(京都)の商人岡本与三郎常安は、大坂に来て北浜十三人町(現・中央区北浜4丁目)で材木商を始めました。臨海に位置する大坂は舟運が便利で材木が集めやすいためです。また暴れ川と呼ばれた淀川は、梅雨や台風のときにはかならず洪水となり、壊れた家屋や転覆した舟が大川を流れてくる。それらを拾い集めても商いになり「淀屋」と名づけた店の主人におさまります「常安橋」「常安町」現・中之島4、5丁目)などの名称は、彼の名前からつけられたものです。

淀屋 常安

大坂冬の陣・夏の陣のとき与三郎は徳川方に味方し、物資を調達したり、徳川家康が天王寺の茶臼山に本陣を築いたおりにも協力しますから家康は大喜び、大坂落城後恩賞として大川(堂島川・土佐堀川も含む)利用の営業権のすべてを与えました。彼は利潤の大半を大川堤防の修理に投じ、地域社会から信頼と尊敬の念を集めます。

淀屋をさらに発展させたのが、長男の个庵(こあん・本名三郎右衛門言当)です。个庵は天正4年(1576)の生まれ。経営の才能は父以上で、幕府の御用商人に選ばれ、糸割符(いとわっぷ=生糸輸入の独占権)を得て蔵元(くらもと=各藩の物産を出納する元締)になり、十三人町の店では米を、靭(うつぼ=現・西区靭本町)を開拓して支店を置き、塩魚類を商って大もうけをしました。これが有名な「堂島米市場」「雑喉場(ざこば)魚市」の起こりです。

今、淀屋橋の南詰西に「淀屋屋敷跡碑」が建っていますね。淀屋の全盛時代は銀庫に、雑貨蔵48の、合計60棟が並んでいるものすごさでした。所蔵小判13万枚、銀8万5千貫、5百石・千石持船総数150といいますから、想像を絶する富商です。井原西鶴『日本永代蔵』という小説に、「日本一の米市なり。一刻の間に五万貫の商あるさまで、米は蔵々に山となす。たがひに面見知りたる故、千万石の売買せしに、相たがふことなきなり」と記すほどのにぎわいです。

中之島一帯に蔵屋敷が並び、大坂が天下の台所とされるのはこれからです。个庵は京橋南詰あたりも開拓して、直接生産者たちに野菜を運ばせる市場を設け、市民たちを喜ばせています。これが「天満青物市場」です。(続く)

淀屋の人たち(二)

「堂島米市場」「雑喉場魚市場」「天満青物市場」を次々に開いて、大坂の人たちの生活向上に尽くした豪商「淀屋」の二代主人淀屋个庵(こあん・本名岡本三郎右衛門言当)の成功は、おくれていた流通機構を都市型機能に改善した点にありました。

地方の物産を大坂に集めて販売するまでの経路、すなわち運輸・貯蔵(倉庫)・売却のシステムを独占し、さらに支払いの遅延する諸藩には、貸金の名目で物資の相当分を押さえる商法を確立したのです。

幕府は淀屋が多額の御用金を献納するのに目がくらみ、諸藩の財政よりも手厚く保護しましたから、淀屋はますます濡れ手に粟となって利潤を独占します。

淀屋个庵の墓

けれども个庵は金もうけだけの商人ではありませんでした『新撰人名大辞典』「个庵は徳川初期の連歌師で茶人」と出ているほど風雅を好み、とくに茶道は源光寺祐心の高弟で堪能(たんのう)、彼の茶会には諸大名の家老たちも出席しますが驚くほど簡素、茶道の原点に戻ろうとする心意気がみられます。また絵画にも長じ、好んで人物・花鳥を描き、松花堂昭範・石川丈山などの風流人や、僧沢庵とも親しくつきあっています。
寛永11年(1634)、将軍徳川家光は大坂を訪れたとき、大坂城に有力な大坂商人たちを集め、名字帯刀を許して恩を売ろうとしますが、个庵はなんの関心も示さず、生涯淀屋个庵で通した気骨の人です。晩年は惣年寄も務め、私費を投じて地域の発展に尽力しました。淀屋橋を架けて便宜をはかったのも、その一つです。

个庵は寛永20年(1643)67歳で病没します。彼には男子がいなかったので、甥(おい)の箇斎(こさい)を養子に迎え、淀屋三代当主を継がせます。四代重当、五代広当と続くものの五代広当が19歳のとき、幕府の命令で淀屋はお取り潰しとなり、豪商淀屋の栄華は夢と消えました。物語や芝居で有名な「淀屋辰五郎」は、この五代広当のことだと言われますが、本当はそうではなく、三代から五代までの行跡を作り話もまじえて脚色し、辰五郎なる架空の人物に合成した虚像です。
个庵の墓は大仙寺(中央区谷町8丁目)にある宝篋(ほうきょう)印塔で、「清昧軒直室个庵居士」と刻まれている…とされています。しかしこれは四代淀屋重当の墓で、二代个庵のものではありません。同寺墓地には淀屋一族の墓が多数残っています。(続く)

淀屋の人たち(三)

商都大阪の礎(いしずえ)になった豪商淀屋が、なぜ幕府からお取り潰しのひどい刑罰をうけたのでしょうか。

一般には五代当主淀屋辰五郎「驕奢増慢(きょうしゃぞうまん=おごりたかぶりぜいたくな暮らしをしたこと)の罪」だとされています。しかし辰五郎なる人物は実在しません。近松門左衛門の傑作「淀鯉出世滝徳(たきのぼり)」をはじめ、芝居、講談、物語等が三代箇斎・四代重当・五代広当の行跡をひとまとめにして、おもしろおかしく作りあげた架空の人名です。

淀屋の屋敷跡

江戸時代の評判記『元正聞記』「(淀屋の屋敷は)大書院・小書院に黄金張り、金襖(ふすま)に極細色の草絵、庭に泉水、夏座敷にビードロ障子立て金魚を放つ。帝王・大名及ばぬ豪勢、四国九州の大名で借金せぬ者一人とて無し。家老も淀屋主人に手つきて挨拶(あいさつ)」 「(四代重当は)算盤(そろばん)秤目(はかりめ)も知らず。雨天に長き衣装着て泥中ひきづり市中を歩き、座敷泥だらけ、まさに聖人なり」などと書かれています。

とにかく三代・四代には商才どころか淀屋の経営自体に関心がなく、資産の管理・運用は無論、収支決算にいたるまですべて番頭・手代まかせ。風流と遊蕩をとりちがえ、大金を湯水のように使ってぜいたく三昧(ざんまい)に暮らしたようです。おまけに四代重当は早死したので、五代広当(辰五郎)が当主になったのは10歳のときでした。先代の放漫経営と、年額1万6千両と記される交際費が重なり、諸大名への貸金約20億両の大半が焦げつき、倒産寸前だったといわれます。

こうなると甘い汁にたかる蟻どもは、かぎりなく集まってきて内蔵まで喰いちぎる。のたうちまわる巨象淀屋を立て直すには、広当はあまりにも幼なすぎました。やがて広当はとりまき連中に遊所通いを教えられ、花柳界に入りびたり、新町の花魁(おいらん)吾妻太夫(あずまだゆう)にのぼせあがり、金千両で身請けしようとします。

金額は淀屋なら知れたものですが、遊女を正妻にするのはならぬと親類筋が猛反対、金蔵(かねぐら)を封鎖したため広当は親しい手代に泣きつき、手代は取引き先の薬種商小西源右衛門の名を勝手に使い、両替商天王寺五兵衛から2千両を借用し、吾妻を落籍してやりました。これが大事件に発展します。(続く)

淀屋の人たち(四)

豪商「淀屋」の五代主人に淀屋広当(一般には淀屋辰五郎)がわずか10歳でなったとき、淀屋は長年の放漫経営と代々主人の遊蕩(ゆうとう)やぜいたくすぎる暮らしぶり、それに諸大名への貸金約20億両がこげつき、まさに倒産寸前でした。

淀屋の碑

ところがもっと甘い汁を吸おうと番頭・手代どもは、まだ子どもの広当に遊所通いを教えたのです。広当は新町の遊女吾妻(あづま)に夢中になり、千両で身受けするから金策せよと手代に命じます。手代はすぐに返すつもりで知人の薬種商小西源右衛門の名を無断で使い、両替商天王寺五兵衛から2千両ほど借金し用立てますが運悪く、たまたまある会合で源右衛門と顔をつき合わせた五兵衛は、お前さん金持ちやのに、なんでわしに借金するんやとなにげなく尋ねたことから発覚、手代は謀判(ぼうはん=印判の偽造。当時は殺人以上の重罪)で獄門(ごくもん=首を落とされ、さらされる刑罰)、なにも知らなかった広当は所払い、淀屋は全財産を幕府に没収されてお取り潰しになります。宝永2年(1705)のできごとで、広当はまだ19歳の若者でした。まさに「驕れる者久しからず、春の夜の夢のごとし」のありさまで、栄華をきわめた豪商淀屋は、ハンコひとつで消滅したのです。

別の説もあります。当時の社会事件を記した『皇都午睡』という古書に、 「辰五郎(広当)の遊所通いを心配した母が、親しい老医師に説諭してほしいと頼んだ。老医師忠告で辰五郎も目がさめたので、喜んだ母は入手した高価な茶壷を老医師に贈る。老医師は茶の心得がなく商人に売りわたしたところ奉行が聞きつけ、これはさる宮家が盗まれた秘蔵の名器だ、盗品売買とは不届き千万なりといいがかりをつけ、淀屋はお取り潰しになった。これが真相だ」との内容が出ています。

ほかにもお取り潰しになった理由についての説は、いくつかありますが、おそらく莫大な借金を返済できなくなった諸大名たちが結束して、とるにたらぬ罪をでっちあげ、幕府に働きかけて淀屋を潰し、借金の棒引きを図ったたくらみが、本当の原因だったと思われます。もちろん物品の流通機構が整備され、諸藩の蔵米・蔵物の斡旋(あっせん)を独占した淀屋の商法の近代化がおくれ、経営組織が旧態依然たるありさまだったことが、致命傷になったと考えます。 (続く)

淀屋の人たち(五)

宝永2年(1705)幕府から「淀屋」の資産をすべて没収され、追放された五代主人広当(辰五郎)は、妻のあづまとひとり娘の五百(いお)をつれて八幡(現・京都府八幡市)に移り、下村个庵(こあん)と名を変え、昔淀屋に恩義のあった人からわずかな田畑をもらい、まるで空気の抜けた紙風船のように暮らします。それでもよほどくやしかったのか、一度江戸へ下って淀屋から巨額の賄賂(わいろ)を受けていた幕府高官に会い、資産の一部返却を願い出てけとばされました。

淀屋辰五郎の墓

妻のあづまはかつて吾妻と呼ばれた新町の有名な花魁(おいらん)でしたが、なかなかのしっかり者で、同7年には幼い五百と下男半七とともに大坂にもどり、証文の山をかかえて黒田藩や細川藩ら有名な大名たちの蔵屋敷の前に坐りこんで、とても暮らせませぬ、わずかでも返済してくださいませと泣きついています。

淀屋の経営は破綻(はたん)しかけていたとはいえ、お取り潰しの記録に、
「小判12万両、銀8万5千貫、千石船150、米蔵80、屋敷28、骨董(こっとう)宝石等無数、貸金証文山積…」
とあるぐらいです。大坂の人たちは髪ふり乱しボロ着をまとった「淀屋の御寮(ごりょう)はん」の無惨な姿に同情し、誰もが袖を濡らしましたが、蔵屋敷の役人どもは鼻汁さえひっかけませんでした。淀屋のあった中之島界隈(かいわい)には、多くの蔵屋敷が並んでおり、淀屋から借金しない藩はひとつもありません。各藩の家老や留守居役でさえ、淀屋を訪れたときは主人は無論、番頭よりも下座に坐り、手をついてあいさつをしたと言われます。それが知らぬ顔の半兵衛をきめこんだどころか、幼女五百にまでひしゃくで水をぶっかけました。

享保2年(1717)広当は失意のうちに、31歳で病死します。現在、八幡市八幡柴座の民家の前に「淀屋辰五郎旧邸」碑が建っています。

また、神応寺(同市八幡荘)の墓地に、
「(正面)潜龍軒咄哉个庵居士 (背面)享保二丁酉十二月二十一日」
と刻まれた墓碑もあります。石清水八幡宮に参拝されたおりにでも、お探しください。

その後、妻あづまも心労が重なったのかウツ状態になり、とじこもったままで死亡(没年不明)しました。そして娘五百にも不幸が襲いかかります。(続く)

淀屋の人たち(六)

幕府に全資産を没収され追放処分を受けた豪商「淀屋」の五代主人広当は、山城国八幡(京都府八幡市)に移りますが、享保2年(1717)31歳で死亡、ほどなく妻のあづまも神経を病み、ウツ状態であとを追います。

ひとり残った娘の五百(いお)を気の毒がった地元の人たちは、奉行所の与力四方田重之丞(よもだしげのすけ)の息子孫七と結婚させます。ところがお堅いはずの役人の子のくせにワル、正業にはつかず酒と賭博にふけり、おまけに色事に手が早い。泣いてすがる五百に殴る蹴るの乱暴を働き、わずかな財産を使いはたすとさっさと雲隠れしてしまったのです。

明治18年の淀屋橋

生きる望みを失った五百は、近くの松林で首を吊ろうとしますが、たまたま通りかかった浪人の大野左門に助けられます。同情した左門はがらあきになった五百の家で寺子屋を開き、近所の子どもたちに読み書きを教えてかろうじて生計を支え、五百も炊事・洗濯など左門の身の回りの世話を焼くうちに親しくなり、二人は貧しいが幸せに暮らしはじめました。

いっぽう孫七は無頼仲間と悪事を働き続けますがこの話を知り、ねたましくなって仲間を誘い仕返しにきます。ある夜、珍しく左門が酒を飲んで熟睡したのを見定めて押し込み、左門を斬殺、正座して合掌しながらさしのべる五百の首も打ち落として立去ります。この時代は女敵討ち(めがたきうち)といって、夫のある女性が他の男と通じた場合は、二人並べて殺してもおとがめなしが常識でした。妻のある夫が不義をしても「男の甲斐性(かいしょう)だ」と不問にされますから、本当にひどい時代ですね。

ともあれ大坂が商都として発展する礎(いしずえ)を築いた豪商淀屋の末路は、こんな哀れな物語で幕が引かれています。

最後に「淀屋橋」にふれておきます。確実な資料はありませんが初代淀屋橋は、淀屋の二代主人淀屋个庵(こあん)が架けた木橋だとされます。何度も架け替えられたと思いますが、江戸時代後半の淀屋橋は橋長63・6m、幅3・9m、明治初年(同18年洪水で流失)のものは橋長73・4m、幅6mしかありませんでした。

現在の淀屋橋は昭和10年(1935)の竣工で、多数の応募の中から一等当選した大谷龍雄「南欧中世紀風橋」が、設計基本になっています。賞金は金千円也でした。(終わり)