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2014年2月20日淀屋の人たち(五)

宝永2年(1705)幕府から「淀屋」の資産をすべて没収され、追放された五代主人広当(辰五郎)は、妻のあづまとひとり娘の五百(いお)をつれて八幡(現・京都府八幡市)に移り、下村个庵(こあん)と名を変え、昔淀屋に恩義のあった人からわずかな田畑をもらい、まるで空気の抜けた紙風船のように暮らします。それでもよほどくやしかったのか、一度江戸へ下って淀屋から巨額の賄賂(わいろ)を受けていた幕府高官に会い、資産の一部返却を願い出てけとばされました。

淀屋辰五郎の墓

妻のあづまはかつて吾妻と呼ばれた新町の有名な花魁(おいらん)でしたが、なかなかのしっかり者で、同7年には幼い五百と下男半七とともに大坂にもどり、証文の山をかかえて黒田藩や細川藩ら有名な大名たちの蔵屋敷の前に坐りこんで、とても暮らせませぬ、わずかでも返済してくださいませと泣きついています。

淀屋の経営は破綻(はたん)しかけていたとはいえ、お取り潰しの記録に、
「小判12万両、銀8万5千貫、千石船150、米蔵80、屋敷28、骨董(こっとう)宝石等無数、貸金証文山積…」
とあるぐらいです。大坂の人たちは髪ふり乱しボロ着をまとった「淀屋の御寮(ごりょう)はん」の無惨な姿に同情し、誰もが袖を濡らしましたが、蔵屋敷の役人どもは鼻汁さえひっかけませんでした。淀屋のあった中之島界隈(かいわい)には、多くの蔵屋敷が並んでおり、淀屋から借金しない藩はひとつもありません。各藩の家老や留守居役でさえ、淀屋を訪れたときは主人は無論、番頭よりも下座に坐り、手をついてあいさつをしたと言われます。それが知らぬ顔の半兵衛をきめこんだどころか、幼女五百にまでひしゃくで水をぶっかけました。

享保2年(1717)広当は失意のうちに、31歳で病死します。現在、八幡市八幡柴座の民家の前に「淀屋辰五郎旧邸」碑が建っています。

また、神応寺(同市八幡荘)の墓地に、
「(正面)潜龍軒咄哉个庵居士 (背面)享保二丁酉十二月二十一日」
と刻まれた墓碑もあります。石清水八幡宮に参拝されたおりにでも、お探しください。

その後、妻あづまも心労が重なったのかウツ状態になり、とじこもったままで死亡(没年不明)しました。そして娘五百にも不幸が襲いかかります。(続く)