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2014年2月20日淀屋の人たち(三)

商都大阪の礎(いしずえ)になった豪商淀屋が、なぜ幕府からお取り潰しのひどい刑罰をうけたのでしょうか。

一般には五代当主淀屋辰五郎「驕奢増慢(きょうしゃぞうまん=おごりたかぶりぜいたくな暮らしをしたこと)の罪」だとされています。しかし辰五郎なる人物は実在しません。近松門左衛門の傑作「淀鯉出世滝徳(たきのぼり)」をはじめ、芝居、講談、物語等が三代箇斎・四代重当・五代広当の行跡をひとまとめにして、おもしろおかしく作りあげた架空の人名です。

淀屋の屋敷跡

江戸時代の評判記『元正聞記』「(淀屋の屋敷は)大書院・小書院に黄金張り、金襖(ふすま)に極細色の草絵、庭に泉水、夏座敷にビードロ障子立て金魚を放つ。帝王・大名及ばぬ豪勢、四国九州の大名で借金せぬ者一人とて無し。家老も淀屋主人に手つきて挨拶(あいさつ)」 「(四代重当は)算盤(そろばん)秤目(はかりめ)も知らず。雨天に長き衣装着て泥中ひきづり市中を歩き、座敷泥だらけ、まさに聖人なり」などと書かれています。

とにかく三代・四代には商才どころか淀屋の経営自体に関心がなく、資産の管理・運用は無論、収支決算にいたるまですべて番頭・手代まかせ。風流と遊蕩をとりちがえ、大金を湯水のように使ってぜいたく三昧(ざんまい)に暮らしたようです。おまけに四代重当は早死したので、五代広当(辰五郎)が当主になったのは10歳のときでした。先代の放漫経営と、年額1万6千両と記される交際費が重なり、諸大名への貸金約20億両の大半が焦げつき、倒産寸前だったといわれます。

こうなると甘い汁にたかる蟻どもは、かぎりなく集まってきて内蔵まで喰いちぎる。のたうちまわる巨象淀屋を立て直すには、広当はあまりにも幼なすぎました。やがて広当はとりまき連中に遊所通いを教えられ、花柳界に入りびたり、新町の花魁(おいらん)吾妻太夫(あずまだゆう)にのぼせあがり、金千両で身請けしようとします。

金額は淀屋なら知れたものですが、遊女を正妻にするのはならぬと親類筋が猛反対、金蔵(かねぐら)を封鎖したため広当は親しい手代に泣きつき、手代は取引き先の薬種商小西源右衛門の名を勝手に使い、両替商天王寺五兵衛から2千両を借用し、吾妻を落籍してやりました。これが大事件に発展します。(続く)