わいワイ がやガヤ 町コミ 「かわらばん」

みなトコ×みなとQ みなとQ編集室 06-6576-0505

2014年2月20日淀屋の人たち(二)

「堂島米市場」「雑喉場魚市場」「天満青物市場」を次々に開いて、大坂の人たちの生活向上に尽くした豪商「淀屋」の二代主人淀屋个庵(こあん・本名岡本三郎右衛門言当)の成功は、おくれていた流通機構を都市型機能に改善した点にありました。

地方の物産を大坂に集めて販売するまでの経路、すなわち運輸・貯蔵(倉庫)・売却のシステムを独占し、さらに支払いの遅延する諸藩には、貸金の名目で物資の相当分を押さえる商法を確立したのです。

幕府は淀屋が多額の御用金を献納するのに目がくらみ、諸藩の財政よりも手厚く保護しましたから、淀屋はますます濡れ手に粟となって利潤を独占します。

淀屋个庵の墓

けれども个庵は金もうけだけの商人ではありませんでした『新撰人名大辞典』「个庵は徳川初期の連歌師で茶人」と出ているほど風雅を好み、とくに茶道は源光寺祐心の高弟で堪能(たんのう)、彼の茶会には諸大名の家老たちも出席しますが驚くほど簡素、茶道の原点に戻ろうとする心意気がみられます。また絵画にも長じ、好んで人物・花鳥を描き、松花堂昭範・石川丈山などの風流人や、僧沢庵とも親しくつきあっています。
寛永11年(1634)、将軍徳川家光は大坂を訪れたとき、大坂城に有力な大坂商人たちを集め、名字帯刀を許して恩を売ろうとしますが、个庵はなんの関心も示さず、生涯淀屋个庵で通した気骨の人です。晩年は惣年寄も務め、私費を投じて地域の発展に尽力しました。淀屋橋を架けて便宜をはかったのも、その一つです。

个庵は寛永20年(1643)67歳で病没します。彼には男子がいなかったので、甥(おい)の箇斎(こさい)を養子に迎え、淀屋三代当主を継がせます。四代重当、五代広当と続くものの五代広当が19歳のとき、幕府の命令で淀屋はお取り潰しとなり、豪商淀屋の栄華は夢と消えました。物語や芝居で有名な「淀屋辰五郎」は、この五代広当のことだと言われますが、本当はそうではなく、三代から五代までの行跡を作り話もまじえて脚色し、辰五郎なる架空の人物に合成した虚像です。
个庵の墓は大仙寺(中央区谷町8丁目)にある宝篋(ほうきょう)印塔で、「清昧軒直室个庵居士」と刻まれている…とされています。しかしこれは四代淀屋重当の墓で、二代个庵のものではありません。同寺墓地には淀屋一族の墓が多数残っています。(続く)