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2014年2月20日楯彦・八千代(六)

異色の画家菅楯彦が真価を発揮したのは、敗戦直後からでした。灰燼に帰した大都会の復興に、絵筆一本で挑んだのです。

アメリカ文明の旋風が吹き荒れるなか「浪速御民」と名乗った彼は、舞楽・文楽・祭礼などの大阪の伝統文化や神事を研究して描画、下火になっていた天神祭・住吉祭・生国魂祭等の復活に奔走します。とりわけ天王寺舞楽には情熱を注ぎ、雅亮会(天王寺舞楽を復活させた民間団体)に入会し、自ら石舞台にも立ちました。
「何べんも東京へ来いといわれたが、よう行かん。天王寺舞楽を捨てて移る気持ちには、
どないしてもならへん」
と語ったほどです。

四天王寺境内に建つ「楯彦筆塚」

円熟の境地に達した彼の絵は古今無双、淡くみやびやかな色彩、洒脱な趣向、そしてあのユーモラスな動きや表情は、戦後の疲労困憊(こんぱい)した大阪の人たちに、夢と生きる希望を与えました。

新聞連載で好評だった吉川英治「私本太平記」や、壇一雄「男戦女国」なども、楯彦の挿絵が人気を集めたからです。
「大阪に住み、大阪を愛し、大阪に尽くされた最高の長老」
との理由で、昭和37年(1962)最初の大阪市名誉市民に推されます。ほかに大阪府文芸賞、大阪市文化賞、また日本画家としては、これも初めての芸術院恩賜賞をうけています。日仏共同画展にも日本画壇を代表して出品しました。
昭和38年(1963)9月、85歳で没。その前年、楯彦昭和天皇・皇后の御前で、貧窮のどん底にいた幼少時代の苦労話をしますが、やさしい皇后さまは何度もハンケチで目頭を押さえられたと伝えます。
「恬淡(てんたん=あっさりしていること)無欲」と評された楯彦は、酔えば古式朗詠を美声で吟じ、庶民的でけっして威張らず、年老いてもスラリとした長身を崩しませんでした。
「四天王寺は空襲で大半が焼失、その再建は困難をきわめた。楯彦はまるで身内のように嘆いて悲しみ、
おびただしい絵を描いて売り歩き、復興資金に加えてくれと差し出した」
これは望月信成氏の言葉です。まさに浪速御民の面目躍如たるものがあります。
楯彦の墓は阿倍野墓地(阿倍野区阿倍野筋4丁目)にあります。また四天王寺境内に建つ「楯彦筆塚」も見事です。 (終わり)