わいワイ がやガヤ 町コミ 「かわらばん」

みなトコ×みなとQ みなとQ編集室 06-6576-0505

2014年2月21日楯彦・八千代(四)

いったい誰の嫁さんになるつもりや、と町雀たちのうわさの種になっていた富田屋八千代が選んだ相手は、富田屋の芸者衆に絵を教えにきていた菅楯彦でした。どんな玉の輿(こし)にも乗れた八千代は、無名の貧乏画家に嫁いだのです。

大正6年(1917)二人は周囲の猛反対を押しきって結婚します。ときに楯彦39歳、八千代29歳、ともに初婚です。結婚式は新郎・新婦の縁者が2人ずつ、仲人1人、夫婦を入れてもたったの7人だけ。披露宴もなく、酒食どころか歌ひとつでない簡素な神前挙式でした。

楯彦・八千代

「こいつがわしにほれて、女房にしてと押しかけてきよった」
楯彦はいつも自慢してこう語っています。本名の美記にもどった八千代の夫への献身ぶりは、涙ぐましいほどでした。とりわけ女手ひとつで楯彦を育てた母親は、武家の出身、評判のやかまし屋の昔気質(かたぎ)。芸者暮らしで身についた美記の立居振舞いから言葉づかいまで、ガミガミ言って直そうとします。楯彦の友人で作家の谷崎潤一郎は、
「美記さんは姑さんの前では、いつも手をついてものを言っておった。慣れない炊事・洗濯で、ひび、あかぎれだらけになりながら、孝養を尽くされた。どんな金持ちや偉いさんの奥様にもなれた彼女の姿に、目をおおう者も多かった。そのせいか楯彦は、美記さんが早世したあと、死ぬまで妻女は持たなかった」
と、のちに書いています。

楯彦が有名な画家になったのは、もちろん技量や教養、それにすばらしい人格者だったからですが、きっかけはこの結婚です。あの富田屋八千代が手鍋さげて押しかけた男は、どんな奴や…という好奇心からです。
楯彦の絵が売れ、経済的にゆとりがでると美記は書道を学び、ついで近藤尺夫に入門し『万葉集』『源氏物語』の講義を受けます。よほど利発な女性だったのでしょう。和歌・俳句も好み、楯彦に負けぬ詠草を残しています。
しかし美人薄命は世のならい。二人の結婚生活はたったの7年で終わりました。大正13年(1924)美記は急性腎炎のため、36歳で他界します。

生まれきて永き契(ちぎ)りと頼めども明日をも知らぬわが命かな  みき

と書かれた紙片が、ふとんの下から出てきたとき、楯彦は号泣しました。(続く)