敗戦後、軍部の圧力から解放された良一は、まるでうっぷんが爆発したように次々にヒット作を発表します。『夜のプラットホーム』『青い山脈』『銀座カンカン娘』等の名曲が焼跡にあふれ、国民たちを大いに明るく元気づけていきます。しかもどの曲も模倣ではなく、次々に新しいリズムにチャレンジしたところに、彼の値打ちがあります。
とりわけ日本人の歌謡曲イメージを一変させたのが、笠置シヅ子を起用した『東京ブギウギ』です。シヅ子は本名亀井静子、大正3年(1914)香川県引田町に生まれました。祖父は漢学者という家系ですが、幼い頃から芸事が大好きで、小学校を終えると大阪に来てバレエや演劇を学び、昭和2年(1927)13歳で三笠静子の芸名で大阪松竹歌劇団(OSK)の舞台に上がり、やがてトップスターになります。
ところが戦時中吉本興業の吉本セイの自慢の一人息子、早稲田大学生吉本穎右(えいすけ)と恋におち、妊娠します。
物わかりのいいセイですが、2人の結婚だけは誰がどう仲裁しようと聞き入れず、シヅ子は生まれた女の子をエイ子と名づけ、抱きかかえて泣く泣く去っていきます。このあと病弱だった穎右は早世、ひどい精神的ダメージを受けたセイは2人をひき裂いた自分を責め続け、あんなに働き者だったくせに戦後は吉本興業を実弟に譲り、自宅にとじこもって世の中には出ず、そのまま他界する原因の一つになった事件です。
戦前良一はOSKの作曲を何度か引き受けており、主役の静子にも歌わせたことがありました。それで幼女をつれて難儀している静子を知ると、さっそくパンチのきいた歌唱力に目をつけ、誰もが歌ったことのないリズムを取り入れ、『東京ブギウギ』を作曲して与えます。
これは1小節を8音で構成したジャズのひとつで、戦後アメリカで爆発的に流行していました。昭和23年(1948)静子は笠置シヅ子と芸名を変え、東京日劇の舞台に登場、舞台狭しとばかり踊り回りながら、まるで動物がほえるような調子で歌いまくります。
それまでの日本の女性の歌謡曲は、しんみりしたすり泣く調子で失恋の痛手などを歌うものでしたから、これには誰もがびっくりします。しかしひどい食料不足で腹ペコになり、厭世的な気分におちこんでいた人たちに、たくましく生きるエネルギーを与えます。(続く)