わいワイ がやガヤ 町コミ 「かわらばん」

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2014年2月6日服部 良一 (一)

敗戦後の大混乱の真っ暗な日本を、名曲『青い山脈』や『東京ブギウギ』で、元気づけた作曲家です。妹の歌手服部富子が、
「うちのお兄ちゃんは、日本のベートーベンよ」
と自慢したのも、あながち身びいきだけではありません。
良一は明治40年(1907)大阪市中央区の玉造に生まれました。父は近くの砲兵工廠(軍の武器を製造する工場)の工員さんで、貧しいながら律義な正直者、やさしい母にもかわいがられて育ちます。
東平野小学校在学中は成績抜群、いつも親友の安井郁(後の東大教授。原水禁市民運動のリーダー)と、首席を争うほどでした。この小学校の先輩に作家武田麟太郎、後輩に織田作之助(ともに本紙で紹介)がいます。

服部 良一氏

しかし新聞配達して家計を助ける良一は、郁のように中学校にはいけませんでした。担任の先生は気の毒がり、昼は工場で働き、夜は天王寺商業学校の夜間で学ぶよう世話します。それでもひたすら角帽(国立の大学生がかぶった帽子)生活を夢見ていた良一は、淋しくてたまらない。いつしかひまのあるときは、ハーモニカを吹いて心を慰めるようになりました。
夜間部を卒業するころ、道頓堀のうなぎ屋『いづも屋』に奉公していた姉が
「良ちゃんのハーモニカうまい。どう、いづも屋に少年音楽隊ができるねんて。あんたやったらきっとうかるで」
と誘いました。
明治42年三越百貨店は、かわいい制服を着た少年音楽隊を結成し、店内でナマ演奏して客たちを喜ばせます。三越にいったらタダで聴けるでと評判になり、阪急電車の社長小林一三もやってきて、
「こらおもろい。うちもやろ。うちは女の子でやったろ」
と真似たのが、今の宝塚歌劇の起こりです。いづも屋もチェーン店を広げるため、宣伝に力をいれる必要がありました。
大正12年(1923)9月、16歳の良一少年は、『いづも屋少年音楽隊第1期生』になります。高島屋も少年音楽隊を作っており、その中にトランペットの南里文雄や、ジャズの中沢寿士といった後にすごい音楽家に育つ少年が、まじっていました。
良一少年は猛練習を始めます。(続く)

服部 良一 (二)

大正12年(1923)うなぎ店「いづも屋」が宣伝のため結成した「いづも屋少年音楽隊」に入った16歳の良一少年は、死に物狂いになって練習します。その頃船場の料亭「灘万」にジャズライブがあり、アメリカ帰りのサックス奏者前野港造がいました。人間わざとは思えぬ演奏に驚嘆した良一は、その技法を盗もうと何度も通っています。
同14年JOBK(大阪中央放送局)はラジオ放送を開始、放送用に大阪フィルハーモニーオーケストラを結成し団員を募集、良一は見事合格して少年音楽隊から去ります。
このフィルハーモニーに常任指揮者として赴任したのが、ロシア人の E・メッテルでした。メッテルは大勢の団員の中から並はずれた良一の才能を見抜き、週1回神戸の自宅に稽古に来いと命じます。それからの4年間、メッテルの厳しい指導 は言語に絶するほどでした。それでも良一はくじけません。幸運を喜び1回も欠席せずに通います。さらに生活に恵まれぬ彼は、フィルの練習のない夜は積極的にダンスホールやカフェのバンドに参加、さまざまな曲を演奏します。これがフィルのクラシックと合わせ、良一のレパートリーがびっ りするほど広い理由になるのです。

服部 良一氏

メッテルは京都帝国大学音楽部オーケストラの指揮者も兼ねており、そこでバイオリンをひいていたある若者を自宅につれてきて、
「この男も君に負けぬほど才能がある。個人レッスンをしてやることにきめた」
と良一に紹介しました。この若者が後に大阪フィルの指揮者として長年にわたり大活躍する朝比奈隆です。そうです。世界最高齢の指揮者として海外にも広く知られたタカシ・アサヒナです。当時良一はフィルのフルートとサキソフォンを任されていましたが、メッテルや朝比奈隆を見て俺も指揮者になろうと決心します。
しかし彼は指揮者にはなれませんでした。昭和8年(1933)大望をいだいた26歳の良一はフィルを退団し、東京へ出て指揮者をめざしますが、名のあるオーケストラの指揮部門は東京音楽学校(現・東京芸大)出身者が占めており、天王寺商業夜間部の彼には入りこむ余地がなかったのです。
苦しい毎日を重ね、同11年生活のため「日本コロンビア」に入社しますが、ここですばらしい歌姫と出会います。
(続く)

服部 良一 (三)

指揮者にあこがれて東京に出た26歳の良一は、恵まれない学歴もあって不遇な生活をすごし、仕方なく昭和11年(1936)「日本コロンビア」に入社します。翌12年会社はこの女性歌手の新曲を作ってみないかと、淡谷のり子を紹介します。
彼女は本名淡谷規(のり)、明治40年(1907)青森の大きな呉服屋の娘に生まれました。女学校卒業頃両親は離婚、母親は規と妹をつれて上京、規は東洋音楽学校(現・東京音大)声楽科を首席で卒業し、「10年に1人しか出ないソプラノ歌手」と絶賛されます。
しかし生活のためクラシックにとどまることができずポリドールに入社、この年コロンビアに移ってきて心機一転、売り出せる曲を探しているところでした。

服部 良一氏

のり子の気位の高さは有名、お天気屋でいわゆる演歌が大嫌い。同年代ながら女王さまのように鼻先であしらうのり子に、良一はおっかなびっくり、文句あるなら会社やめたらええと作曲した『雨のブルース』の譜面を見て、のり子は感動しました。今まで日本の歌謡曲界になかったメロディだったのです。
続いてのり子が瞳をうるませて歌った『別れのブルース』が大ヒットします。
「窓をあければ 港が見える メリケン波止場の 灯が見える」
のメロディは、戦争に傾く軍国日本の隅々にまで、物悲しく流れていきました。
柳の下にどじょうは何匹もいます。『君忘れじのブルース』『東京ブルース』とヒット曲はあとを追い、「ブルースの女王淡谷のり子」の名が定着しました。
かつてロシアの指揮者E・メッテルが高く評価した良一の秘めた才能は、ここに花開き、『蘇州夜曲』や『湖畔の宿』といった歌謡史に残る名作も次々に誕生します。
しかし時代の流れは、戦時色が濃くなるばかりです。勇壮な軍歌全盛時代が来て、
「お前の歌は暗すぎる」「戦う意欲が薄れてゆく。敵性音楽だ」
と政府筋から無茶な横槍が入って、曲を作っても会社は発売禁止を命じられ、
「服部ブルースやない。発禁ブルースや」
と笑われたこともあります。軍歌を作れといわれても、中国やアジア大陸を舞台にしたあたり わりのないものしか、手を出しませんでした。昭和20年(1945)8月、敗戦の大混乱の中で良一は立ち上がります。(続く)

服部 良一 (四)

敗戦後、軍部の圧力から解放された良一は、まるでうっぷんが爆発したように次々にヒット作を発表します。『夜のプラットホーム』『青い山脈』『銀座カンカン娘』等の名曲が焼跡にあふれ、国民たちを大いに明るく元気づけていきます。しかもどの曲も模倣ではなく、次々に新しいリズムにチャレンジしたところに、彼の値打ちがあります。
とりわけ日本人の歌謡曲イメージを一変させたのが、笠置シヅ子を起用した『東京ブギウギ』です。シヅ子は本名亀井静子、大正3年(1914)香川県引田町に生まれました。祖父は漢学者という家系ですが、幼い頃から芸事が大好きで、小学校を終えると大阪に来てバレエや演劇を学び、昭和2年(1927)13歳で三笠静子の芸名で大阪松竹歌劇団(OSK)の舞台に上がり、やがてトップスターになります。

笠置 シヅ子

ところが戦時中吉本興業の吉本セイの自慢の一人息子、早稲田大学生吉本穎右(えいすけ)と恋におち、妊娠します。
物わかりのいいセイですが、2人の結婚だけは誰がどう仲裁しようと聞き入れず、シヅ子は生まれた女の子をエイ子と名づけ、抱きかかえて泣く泣く去っていきます。このあと病弱だった穎右は早世、ひどい精神的ダメージを受けたセイは2人をひき裂いた自分を責め続け、あんなに働き者だったくせに戦後は吉本興業を実弟に譲り、自宅にとじこもって世の中には出ず、そのまま他界する原因の一つになった事件です。
戦前良一はOSKの作曲を何度か引き受けており、主役の静子にも歌わせたことがありました。それで幼女をつれて難儀している静子を知ると、さっそくパンチのきいた歌唱力に目をつけ、誰もが歌ったことのないリズムを取り入れ、『東京ブギウギ』を作曲して与えます。
これは1小節を8音で構成したジャズのひとつで、戦後アメリカで爆発的に流行していました。昭和23年(1948)静子は笠置シヅ子と芸名を変え、東京日劇の舞台に登場、舞台狭しとばかり踊り回りながら、まるで動物がほえるような調子で歌いまくります。
それまでの日本の女性の歌謡曲は、しんみりしたすり泣く調子で失恋の痛手などを歌うものでしたから、これには誰もがびっくりします。しかしひどい食料不足で腹ペコになり、厭世的な気分におちこんでいた人たちに、たくましく生きるエネルギーを与えます。(続く)

服部 良一 (五)

昭和23年(1948)幼女エイ子を抱え、困っていた元大阪松竹歌劇団の笠置シヅ子を起用した服部良一の作曲『東京ブギウギ』は、大ヒットをとばします。続けざまにこのコンビで、『ヘイヘイブギ』『ジャングルブギ』『ホームランブギ』『買物ブギ』『大阪ブギ』と新曲を出し、敗戦のショックで落ちこんでいた世相を、いっぺんに明るくしたのです。

服部 良一氏

なにしろ「あなたがほほえむときはラッキーカムカム」「ホイジャングルで骨のとけるような恋をした」「ひとつカンと打ちゃホームランブギ」「チョイトおっさんこれなんぼ」「ホンニソヤソヤそやないか 大阪ブギ」…といった日常生活と全く異和感のある歌詞に、日本にかつてなかったブギのリズムが快くおりなして、生きる勇気を与えます。
しかし「日本では稀な底ぬけに明るいエンターテナー」といわれたシヅ子は、暴れ回って舞台をおりたあと、
「楽屋でエイちゃんに抱きついて泣いてた」
と良一は語っています。
現在良一は、古賀政男と並ぶ作曲家だと評価されていますが、質は全く異なります。政男メロディのルーツは、哀調を帯びた朝鮮のエレジーですが、良一メロディの原型はアメリカンジャズです。洋楽的感覚が生命でした。
晩年彼はかなり思いきった発言をしていますが、ふしぎに敵がいない。よほど心が優しく人柄がよかったのでしょう。レコード大賞を制定、日本作曲家協会会長としても活躍します。交響曲『ぐんま』のような本格的クラシックも多く作曲し、生涯の作曲総数3千5百をこえるといわれます。平成5年(1993)86歳没。国民栄誉賞を贈られています。
ところで良一に、昭和21年(1946)コロンビアから出した『大阪復興の歌』というのがあるのを、ご存知でしょうか。これは大阪市とJOBKの後援で制作したもので、当時の№1歌手霧島昇と松原操夫妻のデュエットです。歌詞の一部をあげておきます。kashi

どなたか歌える方おられませんか?(終わり)