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2014年2月6日服部 良一 (三)

指揮者にあこがれて東京に出た26歳の良一は、恵まれない学歴もあって不遇な生活をすごし、仕方なく昭和11年(1936)「日本コロンビア」に入社します。翌12年会社はこの女性歌手の新曲を作ってみないかと、淡谷のり子を紹介します。
彼女は本名淡谷規(のり)、明治40年(1907)青森の大きな呉服屋の娘に生まれました。女学校卒業頃両親は離婚、母親は規と妹をつれて上京、規は東洋音楽学校(現・東京音大)声楽科を首席で卒業し、「10年に1人しか出ないソプラノ歌手」と絶賛されます。
しかし生活のためクラシックにとどまることができずポリドールに入社、この年コロンビアに移ってきて心機一転、売り出せる曲を探しているところでした。

服部 良一氏

のり子の気位の高さは有名、お天気屋でいわゆる演歌が大嫌い。同年代ながら女王さまのように鼻先であしらうのり子に、良一はおっかなびっくり、文句あるなら会社やめたらええと作曲した『雨のブルース』の譜面を見て、のり子は感動しました。今まで日本の歌謡曲界になかったメロディだったのです。
続いてのり子が瞳をうるませて歌った『別れのブルース』が大ヒットします。
「窓をあければ 港が見える メリケン波止場の 灯が見える」
のメロディは、戦争に傾く軍国日本の隅々にまで、物悲しく流れていきました。
柳の下にどじょうは何匹もいます。『君忘れじのブルース』『東京ブルース』とヒット曲はあとを追い、「ブルースの女王淡谷のり子」の名が定着しました。
かつてロシアの指揮者E・メッテルが高く評価した良一の秘めた才能は、ここに花開き、『蘇州夜曲』や『湖畔の宿』といった歌謡史に残る名作も次々に誕生します。
しかし時代の流れは、戦時色が濃くなるばかりです。勇壮な軍歌全盛時代が来て、
「お前の歌は暗すぎる」「戦う意欲が薄れてゆく。敵性音楽だ」
と政府筋から無茶な横槍が入って、曲を作っても会社は発売禁止を命じられ、
「服部ブルースやない。発禁ブルースや」
と笑われたこともあります。軍歌を作れといわれても、中国やアジア大陸を舞台にしたあたり わりのないものしか、手を出しませんでした。昭和20年(1945)8月、敗戦の大混乱の中で良一は立ち上がります。(続く)