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2014年2月25日鉄道唱歌の人たち(二)

鉄道唱歌の作詞を渋る詩人大和田建樹を、小出版社「市田昇文館」市田元蔵は、自分でもあきれるほどの熱弁で説得します。今や汽車は交通手段の花形や。これをテーマに沿線の地理・歴史・風俗・人情・物産等をおりこみ、格調高くロマンチックに歌いあげる詩人は、日本中探しても先生しかおらへん…とくどきにくどき、ついに
「まあその気になったら連絡する」
と言わせてしまいます。明治31年(1898)の話です。この年は東海道線が全線開通し、鉄道ブームにわいていた時代です。あれほど渋った建樹も、この奇抜な着想に食指が動いたのか、年の暮れになると大阪の元蔵のもとに「ヤクソクハタス スグコイ」との電報が届きます。大喜びの元蔵は有り金残らずかっさらい、ひとりの青年をつれて上京しました。この青年が無名の作曲家多梅稚です。
多家は平安時代から京の朝廷に雅楽で奉仕した名門の家系、『古事記』を編集した太安万侶の子孫だそうです。そのせいか梅稚も東京音楽学校(現・東京芸術大学)で学んだころから、作曲の才能は抜群。当時は大阪師範学校(現・大阪教育大学)や府立一中(現・北野高校)で生徒を教える有望な若者で、元蔵はかねがね目をつけていました。
ところが大和田邸に着いた梅稚は、応接室にいた先客の紳士をみてとびあがります。
「ひゃあ、セ、先生…」
紳士は東京音楽学校で梅稚を指導した教授上真行でした。作曲した「一月一日」年のはじめの…)は、今でも愛唱されていますね。元蔵梅稚をつれてくるとは知らなかった建樹は、鉄道唱歌の作曲を頭を下げて真行に頼んでいたのです。
「先生にはかないません。私は帰ります」
とたじろいで後ろを向く梅稚の背広の裾を、しっかととらえて放さぬダボハゼ(業者仲間での元蔵のあだ名)は大声で、
「あきまへん。そんな偉い先生では、わいの注文聞いてもらえません。わいにもお願いしたいことヤマほどある。この仕事は大和田先生と多さんのコンビやないと、絶対に嫌だっせ」
と叫びました。
こうしてこの年の歳末の12月28日、「実地を歩かねば歌詞はできぬ」と主張する建樹の顔を立て、3人は新橋から東海道線の汽車に乗り込みます。満員の乗客たちは流れる車窓の景色の速さに、歓声をあげました。 (続く)