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2014年2月25日鉄道唱歌の人たち(一)

昭和39年(1964「夢の超特急」と呼ばれた新幹線が、日本民族の明るい希望を乗せてスタートしたとき、車内放送のテーマミュージックの軽快さに、誰もが感嘆しました。あれが歌謡史上空前の大ヒットとなった「鉄道唱歌」のリバイバルです。大阪で生まれたこの名曲に、命を賭けた男たちの悲しいロマンをしばらく紹介します。
明治28年(1895)5月、たまたま商用で京都に来ていた大阪の商人市田元蔵は、駅前で月琴(中国から輸入された琴に似た楽器)に合わせて歌う大道芸人にひかれました。

「汽笛一声新橋を あとに出てゆく芝浜や 左は遠く房総の 沖に行き交う真帆片帆」
これは「汽車の旅」作詞・横江鉄石)という歌で、以下内容に下品な点もあるが、当時の歌謡としては新鮮な歌詞でした。
「おもろいがテンポがのろい。もっとええ歌にしてはやらしてやろ」
元蔵はポンとひざをたたきます。このとき彼は21歳。西区阿波座南通りで「市田昇文館」という小さな出版社を経営、教科書の副教材や子供向けの絵本を出して、細々と暮らしています。
「わいのじいさんはな。版木屋で大塩平八郎の檄文(反乱の参加を呼びかけた有名な刷りもの)、あれ刷ってやったんやぞ」
が自慢のタネ、もうけよりも夢追いびとのタイプでした。
3年後の明治31年、元蔵は上京し大和田建樹を訪ねます。数年前彼は私立明治女学校の国語科教員だった建樹に頼み、『いろは字引』と名づけた小型辞書を出し、値段がたったの3銭だったこともあって、大いに売れたことがあります。
「やっぱり大和田先生がええ。歌詞をちょっと手直ししてもらお」
と気軽にでかけたのですが、建樹はすでに売れっ子になっている「故郷の春」「船あそび」などの作詞は、文部省唱歌に選ばれ、音楽教科書に載っているほどでした。
「そりゃ無理な話だ。キミの企画だと実地を廻らねば書けぬ。ボクが作曲家をつれて汽車に乗り込まねばできないよ。そんな時間はないしカネもかかる」
手を横に振って断る建樹に、元蔵は押しの一手で迫ります。彼はダボハゼとかげぐちをたたかれたほど、食いついたら離れないしぶとい気性の持主だ。てこでも動かぬ形相になって、鉄道のすばらしさを喋りまくりました。(続く)

鉄道唱歌の人たち(二)

鉄道唱歌の作詞を渋る詩人大和田建樹を、小出版社「市田昇文館」市田元蔵は、自分でもあきれるほどの熱弁で説得します。今や汽車は交通手段の花形や。これをテーマに沿線の地理・歴史・風俗・人情・物産等をおりこみ、格調高くロマンチックに歌いあげる詩人は、日本中探しても先生しかおらへん…とくどきにくどき、ついに
「まあその気になったら連絡する」
と言わせてしまいます。明治31年(1898)の話です。この年は東海道線が全線開通し、鉄道ブームにわいていた時代です。あれほど渋った建樹も、この奇抜な着想に食指が動いたのか、年の暮れになると大阪の元蔵のもとに「ヤクソクハタス スグコイ」との電報が届きます。大喜びの元蔵は有り金残らずかっさらい、ひとりの青年をつれて上京しました。この青年が無名の作曲家多梅稚です。
多家は平安時代から京の朝廷に雅楽で奉仕した名門の家系、『古事記』を編集した太安万侶の子孫だそうです。そのせいか梅稚も東京音楽学校(現・東京芸術大学)で学んだころから、作曲の才能は抜群。当時は大阪師範学校(現・大阪教育大学)や府立一中(現・北野高校)で生徒を教える有望な若者で、元蔵はかねがね目をつけていました。
ところが大和田邸に着いた梅稚は、応接室にいた先客の紳士をみてとびあがります。
「ひゃあ、セ、先生…」
紳士は東京音楽学校で梅稚を指導した教授上真行でした。作曲した「一月一日」年のはじめの…)は、今でも愛唱されていますね。元蔵梅稚をつれてくるとは知らなかった建樹は、鉄道唱歌の作曲を頭を下げて真行に頼んでいたのです。
「先生にはかないません。私は帰ります」
とたじろいで後ろを向く梅稚の背広の裾を、しっかととらえて放さぬダボハゼ(業者仲間での元蔵のあだ名)は大声で、
「あきまへん。そんな偉い先生では、わいの注文聞いてもらえません。わいにもお願いしたいことヤマほどある。この仕事は大和田先生と多さんのコンビやないと、絶対に嫌だっせ」
と叫びました。
こうしてこの年の歳末の12月28日、「実地を歩かねば歌詞はできぬ」と主張する建樹の顔を立て、3人は新橋から東海道線の汽車に乗り込みます。満員の乗客たちは流れる車窓の景色の速さに、歓声をあげました。 (続く)

鉄道唱歌の人たち(三)

鉄道唱歌

 

明治31年(1898)12月28日、日本で初めての鉄道をテーマにする唱歌を作ろうと、詩人大和田建樹(当時41)、音楽家多梅稚(29)、小出版社「市田昇文館」主人市田元蔵(24)の3人は、開通したばかりの東海道本線に乗り込み、東京の新橋駅をスタートします。
売れっ子の建樹はひと晩で60枚の原稿を書きなぐり、歌会に出ればたちまち百首の短歌を速吟する早業で知られ、尾崎紅葉(大御所の作家。代表作「金色夜叉」)から「あいつはタイプライターだ。たたけばいくらでも文字が出てきよる」と唸らせたほどの男です。汽車が動きだすとすぐに「車窓日記」と書いたノートをとりだし、窓外を眺めながらスラスラと筆を走らせます。

「汽車は新橋を出でぬ 雨しめやかに降りていたり 遠くゆく船も煙に包まれて 窓辺に白し品川の海…」
このメモが一世を風靡した「鉄道唱歌」の出だし、「汽笛一声新橋を…」の原案です。
唱歌が大ヒットした原因は、建樹の格調の高い実景描写のリアリティにあります。
梅稚はほとんど目をつぶったまま。時々、横目で建樹のノートをのぞき、なにかぶつぶつつぶやくだけです。元蔵がまめまめしく弁当やお茶、果物などを差しだすなか、汽車はゴトゴトと軽快なリズムで走り、両人のインスピレーションを、ますますかきたてました。
こうして翌明治32年春、大和田建樹作詞・多梅稚作曲の「鉄道唱歌」は完成するが、肝心の版元市田昇文館が倒産寸前です。営業採算を無視して鉄道唱歌につぎこんだだけではない。日清戦争が終結し、大戦景気が一転して大不況におちいった時代で、零細企業の資金のやりくりはどこもいき詰まり、市田昇文館の店も担保に入っているありさまです。それでも元蔵「鉄道唱歌」に起死回生の夢を賭け、無理算段してやっと3千部を刊行します。
しかし弱小資本の悲しさ、宣伝力のないせいかさっぱり売れぬ。どこの書店でも野ざらしとなり「あきまへん。売れまへんで」とそっくり戻ってきました。
「ああ、えらいことしてもうた。大和田先生や多さんに、恥かかせてしもた」
としょげ返っていた元蔵を、ある日突然恰幅のいい紳士が訪ねてきます。有名な「三木楽器店」の主人三木佐助でした。捨てる神も拾う神もあったのです。(続く)

鉄道唱歌の人たち(四)

明治32年(1899)大阪の小出版社「市田昇文館」が、社運を賭けて刊行した大和田建樹作詞・多梅稚作曲「鉄道唱歌」は、さっぱり売れない。返本の山に埋まって半泣きになっていた主人市田元蔵を、訪ねてきたのが有名な「三木楽器店」三木佐助です。

同店は文政8年(1825)創業の漢籍問屋「河内屋」の後身で、佐助は4代目主人。彼は時代の流れをいち早く見抜き、明治21年(1888)楽器販売店にきりかえ、山葉(やまは)ピアノ・オルガン、鈴木バイオリンなどの関西販売権を独占し、巨万の富を築きます。
その佐助がある日、たまたま店先にいると上品な母親とかわいいお嬢ちゃんが来て、ピアノを買いたいが試し弾きをさせて…と頼まれます。小さな紙切れを広げてお嬢ちゃんが弾いた軽快なメロディが、実に快い。今までの日本にはなかったさわやかなリズムです。
「お上手やなあ。お嬢ちゃん、それなんていう曲?」
と訪ねて紙切れに「鉄道唱歌」とあるのを知り、市田昇文館にすっ飛んできたのです。
「な、鉄道唱歌の版権を譲ってくれ。あんたのとこの借金、肩代わりさせてもらうよて。このとおり頼む」
佐助に頭を下げられても、白い眼でにらんでいた元蔵ですが、押し問答をするうち、
「このままやったら宝の持ちぐされや。あんた、意地張ってこれほどの名曲、闇に葬ってしまうおつもりか」
と言われて、さすがのダボはぜ(元蔵のあだ名。食いついたら離れない意味)も、とうとう首をタテに振りました。オトコ元蔵、たったの3百円で手を打ったのです。
翌明治33年5月「鉄道唱歌」「地理教育」の名で、一部6銭で大々的に売りだされます。ポケット型で作詞は大和田建樹だが、作曲は多梅稚上真行(うえしんぎょう / 東京音楽学校教授・梅稚の恩師=11月号(二)参照)の2人の音符が並んだものです。
アイデアマンの佐助は、やることが違う。胸に白バラ、白い帽子に赤のユニフォーム姿の楽士隊を編成、美人で声量豊かな女性歌手を列車に乗せて歌わせました。
「この突飛な企画は予想以上の歓迎を受け、鉄道唱歌の販売部数はおびただしき数に達し、洛陽の紙価を高らしむる(大昔、中国の晋(しん)の詩人左思が「三都賦」という作品を発表したとき、都洛陽の人たちが争って転写したため、紙の価格が暴騰した故事)」
と、『明治流行歌史』に記されるほど、大当たりをします。(続く)

鉄道唱歌の人たち(五)

明治32年(1899)5月、倒産寸前だった大阪の小出版社「市田昇文館」から、大和田建樹作詞、多梅稚作曲「鉄道唱歌」の版権を譲り受けた「三木楽器店」の主人三木佐助は、財力と奇抜な宣伝を生かして大々的に売りだし、歌謡史上例のない大当たりをとります。

調子に乗った佐助は、建樹梅稚のお尻をたたき、第二集「山陽・九州」第三集「東北」、第四集「北陸」第五集「関西・参宮・南海」と、わずか半年の間にこんなに刊行します。もっともタイプライターのあだ名のあった速筆の詩人建樹は、次から次と書きとばすが、慎重型の梅稚はそうはいかぬ。
「そないせかされても、曲ちゅうもんは早うはできません」
と渋り、第三集から作曲できなくなります。
やむなく佐助は、「モモタロウ」田村虎蔵「キンタロウ」納所弁次郎「婦人従軍歌」奥好義ら、人気の高い売れっ子作曲家を起用しますが誰もが見向きもせず、梅稚の曲で歌いました。それほどかつての日本には無かった軽快な、走る列車にふさわしいリズムをもつ名曲だったのです。
「鉄道唱歌」は、刷っても刷っても注文に追いつかず、どこの書店でもすぐ品切れです。歌詞は沿線の歴史・地理・風物・産物・人情などを巧みにおりこみ、七・五調の四行を一章に、第五集まで合計332章。教育効果は高いと学校や自治体も、争って求めます。会社・商店から工場、ついに政治家や高級官僚、いや、花柳界まで芸者の三味線にのって「汽笛一声新橋を…」と歌い踊るありさまです。
もちろん背景には、空前の鉄道ブームがあります。明治維新後西洋文明に圧倒されていた日本の、美と文化と国力の再発見にある…と学者たちは解説します。しかしなんといっても建樹梅稚の才能が第一だ。学者たちまでとりこになる。夏目漱石の弟子で学習院の院長安倍能成(哲学者)は、熱烈な「鉄道唱歌」のファン。宴席ではかならず歌いだし、それも始発新橋から終着神戸までやらねば、気がおさまりませんでした。
記録によれば「鉄道唱歌」は大正時代の初期までに、約2千万部を売り尽くし、収益は2百万円をこえたと言われます。マスコミが現在とはまったく比較にならぬ時代ですから、これはもうベストセラーズどころの話ではない。
まさに歌謡本としては空前絶後でした。 (続く)

鉄道唱歌の人たち(六)

明治32年(1899)三木楽器店から刊行された大和田建樹作詞・多梅稚作曲「鉄道唱歌」は、爆発的な大ブームとなります。そのなかから大阪の部分を抜きだすので、読者の皆さん、どうぞ歌ってみてください。
「ここぞ昔のなにわの津 ここぞ高津の宮のあと 安治川口に入る舟の 煙は日夜絶えまなし」
「鳥もかけらぬ大空に かすむ五重の塔の影 仏法最初の寺と聞く 四天王寺はあれかとよ」
「大阪出でて右左 菜種ならざる畑もなし 神崎川の流れのみ 浅黄にゆくぞ美しき」

当時の汽車
(交通科学博物館)

実にリアルで叙情にあふれています。建樹と梅稚が開通して間のない東海道線に乗り込み、感嘆した喜びがそのまま言葉になっている。そのとおり綴られた建樹のメモ「車窓日記」には、右の「大阪出でて…」の箇所が次のように書かれています。
「大阪を出でて浦江を過ぎ、神崎川を渡る。旅ごろもなほ寒し、鈴菜咲く浦江の里の冬の夕まぐれ…」
日本の鉄道は明治5年(1872)新橋―横浜間を、イギリス製の汽車「岡蒸気」火と煙と蒸気を吐くから)が走ったのに始まります。大阪―神戸間が同7年、東京―京都―大阪―神戸という大動脈が開通したのは同22年、そして「鉄道唱歌」が同32年ですから、まさに日本の近代文明は、鉄道唱歌のように軽快に快調に広がっていったのです。
しかし鉄道唱歌の人たちの晩年は、まことに不運・不幸の連続でした。2千万部も売れ、収益は二百万円を超える大ヒットだったのに、生みの親たちは数奇な生涯を送ったのです。
まず鉄道唱歌を発案・企画し、初版本を刊行した大阪の小出版社「市田昇文館」の主人市田元蔵は、日清戦争直後の零細企業大不況の波をもろにかぶり「鉄道唱歌」も全く売れず、債鬼に追われて倒産寸前となります。四で記したように「三木楽器店」主人三木佐助の援助を受け、版権を譲渡して債務を肩代わりしてもらい一時は切り抜けるが、そのあとは二、三の小商売をやってもうまくいかず、西区阿波座通りにあった店をたたみ、夜逃げ同様に唐物町や松屋町などを転々とするおちぶれた毎日を、かさねました。(続く)

鉄道唱歌の人たち(七)

「鉄道唱歌」の生みの親、小出版社「市田昇文館」西区阿波座通り)の主人市田元蔵は、何度も商いに失敗し夜逃げ同様の姿で、唐物町、松屋町と転々とします。
気の毒がった作詞者の詩人大和田建樹は、明治41年(1908)大阪市が市電開通を記念して建樹「大阪市街 電車唱歌」の作詞を依頼したとき、出版元は市田元蔵にすることを条件に引き受けます。なんとか収益を与えようとの心配りからです。これは全部で21章から成り立ちますが、港区に関係のある部分だけを抜いておきます。

  「築港行きもにぎはしく ゆけば九条の発電所 行く手に響く体操の 声は市岡中学校」
 「磯路まぢかく来れども 波は音せぬ夕凪(ゆうなぎ)や さす朝潮の心地よく 浮ぶ千舟の帆は白し」
 「三条過ぎて行く程に 大阪湾の海見えて はや築港の桟橋に とまる電車の速(すみや)かさ」
 「天保二年の春の頃 全市の川の土砂を 積みて築きたる天保山 燈明台の名も高し」
 「今は明治の聖代に 海上一里埋め立てて 港作りし大工事 茅渟(ちぬ)の浦風身に清し」

大和田建樹直筆

大和田建樹直筆

大阪の発展は港区にある…大阪を廻ってこう実感した建樹の心意気が、にじんでいます。作曲は「キンタロウ」(まさかりかついだ…)田村虎蔵ですが、大阪市民は誰も見向きもせず、多梅稚の曲で歌いました。
その大和田建樹は、この「大阪市街 電車唱歌」を書いた2年後の明治43年(1910)10月53歳で死亡しています。彼は詩人・歌人としても人気は高く、東京高等師範学校(現・筑波大学)教授や、東京帝国大学講師等も務めた堂々たる国文学者です。また、『明治唱歌』『帝国唱歌』などの唱歌作品集は、尋常小学校の音楽教育に貢献し、『明治文学史』『日本大文学史』といった分厚い国文学関係の著作は、学術的価値も高く、詩集は『詩人の春』『雪月花』等5冊、おびただしい短歌は『大和田建樹歌集』にまとめられています。ところが晩年は気の毒なほど不幸でした。 (続く)

鉄道唱歌の人たち(八)

大ヒットした「鉄道唱歌」の作詞者大和田建樹は、詩人・歌人としては無論、東京高等師範学校(現・筑波大学)教授も務め、数々の業績をあげた国文学者でもあります。ただし彼は学歴が無く独学です。そのため学閥で結ばれた学者仲間から嫌われます。国民的人気が高いだけに、大衆に迎合する軽薄な男だと白い眼で見られ、あら探しする連中も多い。

当時の大阪駅(交通科学博物館)

当時の大阪駅(交通科学博物館)

建樹も反抗的で、「俺は偉いやつと官吏が大嫌いじゃ」と広言し、学内でもしばしば同僚と衝突をくり返す。文部省との折り合いも悪く、いつもにらまれている。おまけに無類の酒好き、金銭感覚ゼロとくる。売れっ子だから収入は多かったはずですが、どこでどう使ったのか家計はいつも火の車。しかも有名な医者嫌い。健康管理がまったくできず、家族を泣かせて明治43年(1910)10月、53歳で急死しました。
死の直前まで筆を放さず、「日本海海戦」など7編の軍歌を書き残しています。さすがに文壇の大御所尾崎紅葉から、「あいつはタイプライターだ。たたけばいくらでもことばがとびだしてくる」と、感嘆されただけの筆力の持ち主ですね。こんな短歌もあります。
「なんとなく嬉しきものは水色に晴れて明けゆく年の初空 建樹」
その建樹をひっぱりだ「鉄道唱歌」を企画して初版を出した西区阿波座通りの小出版社「市田昇文館」の主人市田元蔵は、商才に欠けた夢追いびとで、何度もふれたように失敗しては唐物町、松屋町などを転々としたあげく、今の北区梅田1丁目にあった俗称「でんでん長屋」と呼ばれるうらぶれた長屋暮らしになりました。
近くの大阪駅からは、「鉄道唱歌」の軽快なメロディが流れてきます。
「これでええんや。大和田先生や、作曲でお世話になった多梅稚さんに恩は返した。わいの目に狂いはなかった。あのお二人やさかいに、当たりに当たったんやぞ」とわずかな知り合いに言いふらすのが、せめてもの慰めでした。
大正7年(1918)、あの恐ろしい「スペイン風邪」が大阪を襲います。世界中が震えあがった伝染力・死亡率抜群の悪性インフルエンザです。知人が倒れたことを聞いた元蔵は、見舞いにとんでいくが感染し、高熱を発してあっという間に死亡します。
ときに43歳、妻と2人の子供を残しての無念の他界でした。  (続く)

鉄道唱歌の人たち (九)

大正7年(1918)冬、何度も商いに失敗したあげく、俗称「でんでん長屋」現・北区梅田1丁目あたり)にひきこもって、うらぶれた暮らしをしていた「鉄道唱歌」の初版本の刊行者市田元蔵は、世界中を震えあがらせた悪性インフルエンザ「スペイン風邪」に感染し、高熱にうなされ危篤状態となります。 その最期を聞いてとんで来たのが、作曲者の多梅稚です。もちろん会話など不可能。梅稚は持参したバイオリンで、くり返し「鉄道唱歌」を演奏してやりました。元蔵は涙を流す力も無かったが、しきりに首を亀のように動かし続けたといわれます。好漢元蔵、43歳の他界でした。

鉄道唱歌

鉄道唱歌

その梅稚の生涯も哀れです。連載二で述べたように、あの『古事記』の編集者・太安万侶が先祖と伝わる多家は、平安時代から雅楽で宮廷に奉仕した名門です。元蔵にひっぱりだされたときは、府立一中(現・府立北野高校)の教員でしたが「鉄道唱歌」の大ヒットで全国的に有名になり、母校の東京音楽学校(現・東京芸術大学)作曲科の教授に栄進します。 作曲技能は天才的。学生の人気も高く学長は大喜びで彼を文部省に、国費ドイツ留学生にするよう推挙します。ところが留学が近づいたころ妙な体調不良が続き、やむなく学長は同僚教授に代えました。 真面目すぎるほど純粋で潔癖、デリケートな気質の梅稚は、このいきさつでひどく傷つきます。泥沼にはまるように神経系統を病み、明治36年(1903)たったの2年間の在任だけで、東京音楽学校を退官しました。 それからの彼の行動は、筆者には理解できないことばかりです。どうしたことか株に凝り、失敗の連続。とうとう京都にあった屋敷と土地を処分して損をとりもどそうと大勝負にでて大損失。5万円もの巨額の借金を背負いこみ、世間から離れて茶臼山(天王寺区茶臼山町)の小さな長屋に隠れてしまいました。 大正9年(1920)6月、元蔵を見舞った2年後、52歳で世を去りますが、あれほどの天才作曲家が、二度と譜面をのぞかず、楽器にも手を出さず、あまり巧くない絵を描いたり、器用にハンコを彫ったりして、ひっそりと暮らしたそうです。 ひとりだけ順風満帆だったのが、元蔵から版権を譲渡され、奇抜な宣伝力でブームを起こした「三木楽器店」主人三木佐助です。ヤマハオルガン等も独占販売し、大成功しました。          (終わり)