わいワイ がやガヤ 町コミ 「かわらばん」

みなトコ×みなとQ みなとQ編集室 06-6576-0505

2014年2月25日鉄道唱歌の人たち(四)

明治32年(1899)大阪の小出版社「市田昇文館」が、社運を賭けて刊行した大和田建樹作詞・多梅稚作曲「鉄道唱歌」は、さっぱり売れない。返本の山に埋まって半泣きになっていた主人市田元蔵を、訪ねてきたのが有名な「三木楽器店」三木佐助です。

同店は文政8年(1825)創業の漢籍問屋「河内屋」の後身で、佐助は4代目主人。彼は時代の流れをいち早く見抜き、明治21年(1888)楽器販売店にきりかえ、山葉(やまは)ピアノ・オルガン、鈴木バイオリンなどの関西販売権を独占し、巨万の富を築きます。
その佐助がある日、たまたま店先にいると上品な母親とかわいいお嬢ちゃんが来て、ピアノを買いたいが試し弾きをさせて…と頼まれます。小さな紙切れを広げてお嬢ちゃんが弾いた軽快なメロディが、実に快い。今までの日本にはなかったさわやかなリズムです。
「お上手やなあ。お嬢ちゃん、それなんていう曲?」
と訪ねて紙切れに「鉄道唱歌」とあるのを知り、市田昇文館にすっ飛んできたのです。
「な、鉄道唱歌の版権を譲ってくれ。あんたのとこの借金、肩代わりさせてもらうよて。このとおり頼む」
佐助に頭を下げられても、白い眼でにらんでいた元蔵ですが、押し問答をするうち、
「このままやったら宝の持ちぐされや。あんた、意地張ってこれほどの名曲、闇に葬ってしまうおつもりか」
と言われて、さすがのダボはぜ(元蔵のあだ名。食いついたら離れない意味)も、とうとう首をタテに振りました。オトコ元蔵、たったの3百円で手を打ったのです。
翌明治33年5月「鉄道唱歌」「地理教育」の名で、一部6銭で大々的に売りだされます。ポケット型で作詞は大和田建樹だが、作曲は多梅稚上真行(うえしんぎょう / 東京音楽学校教授・梅稚の恩師=11月号(二)参照)の2人の音符が並んだものです。
アイデアマンの佐助は、やることが違う。胸に白バラ、白い帽子に赤のユニフォーム姿の楽士隊を編成、美人で声量豊かな女性歌手を列車に乗せて歌わせました。
「この突飛な企画は予想以上の歓迎を受け、鉄道唱歌の販売部数はおびただしき数に達し、洛陽の紙価を高らしむる(大昔、中国の晋(しん)の詩人左思が「三都賦」という作品を発表したとき、都洛陽の人たちが争って転写したため、紙の価格が暴騰した故事)」
と、『明治流行歌史』に記されるほど、大当たりをします。(続く)