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2014年2月25日鉄道唱歌の人たち(六)

明治32年(1899)三木楽器店から刊行された大和田建樹作詞・多梅稚作曲「鉄道唱歌」は、爆発的な大ブームとなります。そのなかから大阪の部分を抜きだすので、読者の皆さん、どうぞ歌ってみてください。
「ここぞ昔のなにわの津 ここぞ高津の宮のあと 安治川口に入る舟の 煙は日夜絶えまなし」
「鳥もかけらぬ大空に かすむ五重の塔の影 仏法最初の寺と聞く 四天王寺はあれかとよ」
「大阪出でて右左 菜種ならざる畑もなし 神崎川の流れのみ 浅黄にゆくぞ美しき」

当時の汽車
(交通科学博物館)

実にリアルで叙情にあふれています。建樹と梅稚が開通して間のない東海道線に乗り込み、感嘆した喜びがそのまま言葉になっている。そのとおり綴られた建樹のメモ「車窓日記」には、右の「大阪出でて…」の箇所が次のように書かれています。
「大阪を出でて浦江を過ぎ、神崎川を渡る。旅ごろもなほ寒し、鈴菜咲く浦江の里の冬の夕まぐれ…」
日本の鉄道は明治5年(1872)新橋―横浜間を、イギリス製の汽車「岡蒸気」火と煙と蒸気を吐くから)が走ったのに始まります。大阪―神戸間が同7年、東京―京都―大阪―神戸という大動脈が開通したのは同22年、そして「鉄道唱歌」が同32年ですから、まさに日本の近代文明は、鉄道唱歌のように軽快に快調に広がっていったのです。
しかし鉄道唱歌の人たちの晩年は、まことに不運・不幸の連続でした。2千万部も売れ、収益は二百万円を超える大ヒットだったのに、生みの親たちは数奇な生涯を送ったのです。
まず鉄道唱歌を発案・企画し、初版本を刊行した大阪の小出版社「市田昇文館」の主人市田元蔵は、日清戦争直後の零細企業大不況の波をもろにかぶり「鉄道唱歌」も全く売れず、債鬼に追われて倒産寸前となります。四で記したように「三木楽器店」主人三木佐助の援助を受け、版権を譲渡して債務を肩代わりしてもらい一時は切り抜けるが、そのあとは二、三の小商売をやってもうまくいかず、西区阿波座通りにあった店をたたみ、夜逃げ同様に唐物町や松屋町などを転々とするおちぶれた毎日を、かさねました。(続く)