わいワイ がやガヤ 町コミ 「かわらばん」

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2014年2月6日服部 良一 (二)

大正12年(1923)うなぎ店「いづも屋」が宣伝のため結成した「いづも屋少年音楽隊」に入った16歳の良一少年は、死に物狂いになって練習します。その頃船場の料亭「灘万」にジャズライブがあり、アメリカ帰りのサックス奏者前野港造がいました。人間わざとは思えぬ演奏に驚嘆した良一は、その技法を盗もうと何度も通っています。
同14年JOBK(大阪中央放送局)はラジオ放送を開始、放送用に大阪フィルハーモニーオーケストラを結成し団員を募集、良一は見事合格して少年音楽隊から去ります。
このフィルハーモニーに常任指揮者として赴任したのが、ロシア人の E・メッテルでした。メッテルは大勢の団員の中から並はずれた良一の才能を見抜き、週1回神戸の自宅に稽古に来いと命じます。それからの4年間、メッテルの厳しい指導 は言語に絶するほどでした。それでも良一はくじけません。幸運を喜び1回も欠席せずに通います。さらに生活に恵まれぬ彼は、フィルの練習のない夜は積極的にダンスホールやカフェのバンドに参加、さまざまな曲を演奏します。これがフィルのクラシックと合わせ、良一のレパートリーがびっ りするほど広い理由になるのです。

服部 良一氏

メッテルは京都帝国大学音楽部オーケストラの指揮者も兼ねており、そこでバイオリンをひいていたある若者を自宅につれてきて、
「この男も君に負けぬほど才能がある。個人レッスンをしてやることにきめた」
と良一に紹介しました。この若者が後に大阪フィルの指揮者として長年にわたり大活躍する朝比奈隆です。そうです。世界最高齢の指揮者として海外にも広く知られたタカシ・アサヒナです。当時良一はフィルのフルートとサキソフォンを任されていましたが、メッテルや朝比奈隆を見て俺も指揮者になろうと決心します。
しかし彼は指揮者にはなれませんでした。昭和8年(1933)大望をいだいた26歳の良一はフィルを退団し、東京へ出て指揮者をめざしますが、名のあるオーケストラの指揮部門は東京音楽学校(現・東京芸大)出身者が占めており、天王寺商業夜間部の彼には入りこむ余地がなかったのです。
苦しい毎日を重ね、同11年生活のため「日本コロンビア」に入社しますが、ここですばらしい歌姫と出会います。
(続く)