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2014年2月25日鉄道唱歌の人たち(七)

「鉄道唱歌」の生みの親、小出版社「市田昇文館」西区阿波座通り)の主人市田元蔵は、何度も商いに失敗し夜逃げ同様の姿で、唐物町、松屋町と転々とします。
気の毒がった作詞者の詩人大和田建樹は、明治41年(1908)大阪市が市電開通を記念して建樹「大阪市街 電車唱歌」の作詞を依頼したとき、出版元は市田元蔵にすることを条件に引き受けます。なんとか収益を与えようとの心配りからです。これは全部で21章から成り立ちますが、港区に関係のある部分だけを抜いておきます。

  「築港行きもにぎはしく ゆけば九条の発電所 行く手に響く体操の 声は市岡中学校」
 「磯路まぢかく来れども 波は音せぬ夕凪(ゆうなぎ)や さす朝潮の心地よく 浮ぶ千舟の帆は白し」
 「三条過ぎて行く程に 大阪湾の海見えて はや築港の桟橋に とまる電車の速(すみや)かさ」
 「天保二年の春の頃 全市の川の土砂を 積みて築きたる天保山 燈明台の名も高し」
 「今は明治の聖代に 海上一里埋め立てて 港作りし大工事 茅渟(ちぬ)の浦風身に清し」

大和田建樹直筆

大和田建樹直筆

大阪の発展は港区にある…大阪を廻ってこう実感した建樹の心意気が、にじんでいます。作曲は「キンタロウ」(まさかりかついだ…)田村虎蔵ですが、大阪市民は誰も見向きもせず、多梅稚の曲で歌いました。
その大和田建樹は、この「大阪市街 電車唱歌」を書いた2年後の明治43年(1910)10月53歳で死亡しています。彼は詩人・歌人としても人気は高く、東京高等師範学校(現・筑波大学)教授や、東京帝国大学講師等も務めた堂々たる国文学者です。また、『明治唱歌』『帝国唱歌』などの唱歌作品集は、尋常小学校の音楽教育に貢献し、『明治文学史』『日本大文学史』といった分厚い国文学関係の著作は、学術的価値も高く、詩集は『詩人の春』『雪月花』等5冊、おびただしい短歌は『大和田建樹歌集』にまとめられています。ところが晩年は気の毒なほど不幸でした。 (続く)