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2014年2月6日山川 吉太郎 (四)

大正13年(1924)8月封切りの、帝国キネマ(帝キネ)社長山川吉太郎が製作した無声映画「籠の鳥」は、映画史上に残る大ヒット作になります。その理由は、主役のヒロイン16歳の美少女沢蘭子の悲しげな表情と、主題歌にありました。
「あいたさみたさに こわさを忘れ 暗い夜道を ただひとり」
「あいにきたのに なぜ出てあわぬ いつも呼ぶ声 わすれたか」

帝キネ長瀬撮影所

か細いすすり泣くようなソプラノと、哀愁に満ちたバリトンの男女二人の歌手の歌声は、受けに受け ます。 年配の読者なら誰もがご存知の6節からなるスローテ ンポの歌声にあわせて、客席の女性たちはハンケチで目頭を押さえました。直営館の芦辺劇場も高千代座も連日大入り満員、入りきれぬ客が劇場の回りを四重、五重と行列を作り、何時間も待ち続ける大騒ぎとなります。
大阪市内は「籠の鳥」のメロディであふれ、大阪を小馬鹿にしていた東京の興行主たちも、争ってフィルムを入手しようと袖の下まで使うありさま、宝塚音楽学校の生徒だった無名の蘭子は超アイドルとなり、どこへ行っても「お糸さあん(役の名)」と黄色い声がかかります。特別功労金として千円と着物に帯を買ってもらった蘭子は、
「このお金で甘いもの食べたい」
と答えています。
3千円の制作費で35万円もの収益をあげた吉太郎は、全額つぎこんで長瀬(東大阪市)に、「帝キネ長瀬撮影所」を建設します。
しかし結局、日活や松竹に勝てませんでした。映画技術が進み、活動大写真の時代が終わると潤沢な資本がなければ太刀打ちできなかったからです。おまけに戦時体制に突入して社会不安がつのり、映画界は不況におちいっていました。
焦った吉太郎は、いったん死んだ「籠の鳥」のヒロインお糸を復活させ、続編を製作したのですが、とっくに時代おくれになっており、さんざんの成績で、大阪に映画王国をと夢見た彼は敗北します。
事業拡張の無理も重なり、昭和6年(1931)帝キネは松竹に吸収されて消滅、吉太郎は莫大な借金を背負い、3年後の同9年4月、「籠の鳥」の主題歌を歌ってもらいながら世を去ります。58歳でした。  (終わり)