わいワイ がやガヤ 町コミ 「かわらばん」

みなトコ×みなとQ みなとQ編集室 06-6576-0505

2014年2月6日山川 吉太郎 (二)

大正2年(1913)1月、「ミナミの大火」で焼け野原となった千日前に、南海電車社長大塚惟明の援助で、復興の呼び水となる綜合レジャー施設「楽天地」をオープンして大成功をおさめた興行主山川吉太郎は、すぐに経営の意欲を失います。
ベンチャー企業家の宿命でしょうか。さらに新しい事業をおこしたいと、腹の虫がうずうずしてきたのです。同9年、今度は北浜の相場師松井伊助と組んで、映画制作会社「帝国キネマ」を創立します。
伊助は文久3年(1863)生まれ。中央公会堂を寄付したあの岩本栄之助の配下でしたが、2年前に天候異変と大地主や投機商人たちの買占めで異常なほど高騰した米相場を切り崩して大衆から歓迎され、新聞まで「世直し明神伊助様」と書き立てた義侠心に富む男でした。

沢 蘭子

「東京の日活や松竹に負けない大阪の映画会社を作りたい。あんたの東京嫌いをみこんでの頼みや」
吉太郎にこういわれた伊助は、確かに官界や権力が嫌いの反骨精神の持ち主です。
「よっしゃ。わいも力貸したろ」
と快く出資を引き受けてくれます。
大正12年(1923)、二人は当時の南区日吉橋4丁目に「帝国キネマ演芸株式会社(略称帝キネ)」を設立します。この年9月、関東大震災がおこり、東京の大手映画会社「日本活動大写真会社(日活)」や、「松竹キネマ会社(松竹)」が倒壊し、大打撃を受けます。吉太郎はライバルとめざした両会社の不幸に心から同情しますが、東京嫌いの商魂もむっくり頭をもたげてきます。
「よし、今こそ大衆好みの名画をヒットさせ、大阪のド根性みせてやる」
知恵をしぼった吉太郎は、宝塚少女歌劇団の生徒で、まだ16歳の無名の少女沢蘭子に眼をつけました。
蘭子はふだんは陽気でお茶目な、どこにでもいる女の子でしたが、まつげが長く瞳(ひとみ)を伏せるとたまらないほど悲しげな表情になる。そこにほれこんだのです。
さっそく若い脚本家松屋春翠(しゅんすい)を呼び、蘭子の悲しげな表情の横顔を何度も見せ、
「ええな。このイメージや。なんでもええさかい、おもいきりかわいそうな話を書いてくれ。
ぜったいハッピーエンドはあかんで」
と、念を押しました。(続く)